doniti 日誌

( おもしろき こともある世を おもしろく)

下見のために下見

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忘日、平成お徒隊の5月コースの下見に行く。

構想は8割がたできているのだが、資料にはめ込む写真がない、というより前歩いた時の写真がどこかに格納してあるはずだけれど、季節が違うだろうし、探すのも厄介だし、面倒くせえから歩きに行って写真を撮ってくる。どうせ暇だ。

 

西武線花小金井駅で下車、表に出てみたらなんだか様子が違う。あれれ!? 駅前が変わってしまったんだろうか? 狐に化かされたような気分になって、もう一度駅に戻ってみたら、南口に出るべきを、なんとまあ、北口に降りていた。

 

こんな調子で他人を案内して歩こうなんてえ、太え根性だとつくづく思う。

南口は当然のことながら前と同じ佇まいでおおきに安心した。ここからサイクリング道路、正式には「多摩湖自転車歩行者道路」を歩く。

 

この道は村山貯水池の水道水になるべき水を境上浄水場まで送る導水管が埋まっている。だから貯水池までほぼ直線、車を通さないので自転車と歩行者の専用になっている。そして貯水池からぐるりと多摩湖を巡って、併せて20㎞強の距離。

 

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車がいない道だから、うんと若いの、中の若いの 若くないの、いろいろといる。苦しげに走る人だっている。道脇には草木が植えてあって、花のトンネルや緑の屋根を作る時もある。また、小平市ゆかりの彫刻家の作品がごく控えめに置いてある。それらを見ながらゆるゆる歩くのはいい気分だ。

 

 

この日は少し寒かったが歩いているうちに何とかなるだろう。
青梅街道と交差するところに「小平ふるさと村」なる小公園がある。この地の江戸時代の民家などが移築復元されているが、見どころは武蔵野の一面の茅野原に初めて鍬を入れた江戸初期の入植農民の想定復元家屋。

壁は萱を束ねて作ってあるし、当然屋根も萱、狭い土間の奥に竹を編んだ床の座敷、地面に蓆を敷いただけの寝所、いやはや、冬はどれほど寒かったろうか、想像の外にある。こんな小屋に潜り込んで食うものも食えず、骨のきしむような労働に明け暮れてこの武蔵野の原野を切り開いたに違いない。

   

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江戸期を通じて開拓されていった村の絵地図があった。

緑の部分が一番最初にできた「小川村」、その他は享保の改革で生まれた武蔵野新田、これでほぼ現在の小平市域と重なる。このようにして一面萱の原の武蔵野原野が開墾されて、今日の多摩地方がある。夢おろそかに思ってはいかん。

 

 

さてここからは自転車歩行者道路を離れて青梅街道を歩く。

 今年度のわが受持ち3回のシリーズを”青梅街道の脇を歩く”と名付けたのだから、是が非でも青梅街道は歩かねばならぬ。街道沿いのお寺や神社やらを2,3廻って、車ブンブン街道が嫌になった。少し早いけれど昼飯にすべえ。

 

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目の前にチェーン店の中華屋あり、安くて腹に入れば何でもいい、入る。メニューを見ると安くない。仕方がないからチャーハン、到着まで新聞に目を落とす。チャーハン来た、旨くもない、街角のあのラーメン屋のチャーハンの、油を焦がしたような香ばしさもない。これだからチェー店は嫌だなあ、個人店よ、消えてくれな!

 

新聞から目を離して餌の摂取に取り掛かると、斜め前方3,4m先の席でこちらを向いている女性が気になった。隣の、たぶん彼女の娘だろう少女二人のほうを大きな瞳をくるっと回して時々見る。目の前にはこちらからはよく見えないがメガネの同年齢の母親とその娘、そちらと話しながらちょいちょいと娘らを見る。

その表情が誰かに似ているなあ、と思った。そうだ、岸恵子、あの丸顔をうん!と両側から押して細くし、年齢をやっ!と思い切り若くして、そして大きな瞳がくるくる回って娘らに注意の一瞥をくれ、前の席と話をし、時々麺を啜っている。その表情が生き生きとしている。

向こうは気づいているだろうが食事がまずくなるので決してこちらを見ない。

 

 閑話休題、また青梅街道を歩く。この街道ができたのは江戸の初期、青梅の石灰を江戸まで運んだ。家康が来てすぐのころ、江戸城普請の盛んなりしころのこと。今はそんな面影は影にしたくてもない。街道の何もないところをとぼとぼと歩くのは全く持ってつまらない。ひたすら疲れる。

本番でこの何もないところをどう切り抜けるか。考えられるのは、何もないところの中間点のあたりで、ここで飯じゃあ~、と叫ぶこと。そしたらエネルギーを補給して休んで少しばかり元気になるだろう。

 

 

一番最初に開発された「小川村」に入って小川寺(しょうせんじ)に行く。

開発者の小川九郎兵衛が当時の入植者のために開基したお寺。開拓農民の生活が少し安定してから農民が寄進してくれた梵鐘がある。その鐘に寄進者の名が刻まれているが、みな名字がある。江戸時代の農民はすでに名字を持っていたらしい。

墓地のとっつきにスマートな宝篋印塔が立っている。九郎兵衛の墓といわれ市の文化財。説明によると、彼は武蔵村山市の(当時の岸村)生まれ、先祖は後北条氏の家臣で当時は名主の家柄。彼は「小川村」の基礎が安定してから隠居して岸村に帰りその年48歳で逝去、墓は岸村にあるのだが、孫が分骨してここに埋納した。

  

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 さてさて、ようやくあと一息。

青梅街道から離れ、開拓当時に玉川上水から分水した用水掘りに沿って歩く。この用水掘りは今でも小平の民家の間を流れている。おそらく江戸時代のままに。その堀の岸辺に、近くの武蔵野美術大学の学生が制作した彫刻が並んでいる。

 

 

そして玉川上水に突き当たる。少し上流に行くと「小平監視所」なる施設がある。これは羽村から取水した玉川上水の水をゴミなど取り除いて、そのほとんどを搾り取って村山浄水場に送る施設だ。ただ、先ほど歩いた小平を流れる用水掘りの水は同じく多摩川の真水。

つまるところ、ここから下流玉川上水野火止用水多摩川の自然水ではないということ。代わりに何を流しているか、高度処理水とのたまう水なのだ。東京の水事情は過酷で、一滴まで水道のために搾り取ってしまう。

玉川上水は、まず羽村の堰下流で抜き取られ村山貯水池にどんぶらこと流れ、それが導水管で境浄水場に送られ、少し流れてここでまた最後の一滴まで絞られ、そうして下流には人工? の水があたかも清流の面構えで流されている。

岸辺に置かれた自然石の文字「清流の復活」が寂しい。

 

 

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 玉川上水駅到着。歩行距離JPSにて12㎞。時刻はまだ3時ちょいすぎ。

 

電車に乗って地元近くの駅で途中下車。

中国人の若者経営の安い店、紹興酒の亀出し1合(なに、7勺位だな、たぶん)

ごぼうの天ぷら、野菜のあんかけ炒め、ニラと卵のスクランブル。お代わりに5年物紹興酒1合、これでいい気持ちになって帰りましたとさ。