あてなく彷徨せしこと

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多摩の南部に稲城市という街がある。

どういうわけか自分にとっては馴染みが薄い。多摩川を南側へ越えた先にあるので行く機会がないのかもしれないが、よく考えてみればそこへ行く便利な交通機関がないことが大きいと思う。

東京の交通機関は、ひたすら都心を目指すから東西を行き来するには便利だけれど、南北を縦断しようとすると甚だめんどくさい。多摩から横浜方面へ南北に縦断しようとすれば、相模線、横浜線南武線などがあるが、いずれも運行本数が少なく快速も特急もなく大いに不便だ。

 

忘日、その不便をえいやっと乗越えて稲城市へ行つもりになった。

行くには行ったけれど、どこへ行こうかという目的もなければどこかに用事があるわけでもない。ま、駅に降りて行く先がなくたちまち狼狽してもなんだと思い、簡単な地図を一枚コピーはしてきた。

降りた駅は南武線稲田堤駅川崎市のエリアだがここから三沢川という大きからぬ流れが稲城市のほうへ続いている。その川に沿ってよたよたと溯ってみようか、とうすぼんやりと考えている。

 

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三沢川は清流とはちと言かねるけれど、両岸に立派な遊歩道が続いていて歩きやすい。源流部はコピーの地図を見ると多摩丘陵のどこかの麓らしい。この辺りは多摩丘陵の一部で、その山肌が湧き出すように芽生えたばかりの新緑に覆われ見ごたえがある。

岸辺の遊歩道には、こちらと似たような爺様がぽつりぽつり歩いている。ぼんやり歩いていくと丘陵の麓に鳥居が現れ、看板に名水だとかなんだとか書いてある。近寄ってみたら、鳥居の奥に不細工な弁才天がいて、脇に洞窟が二つ口を開けている。滴るような湧き水だがここへ水くみに来る人も多いらしい。

 

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地図を見るとこの近くに小沢城跡というのがあるらしい。行きがかり上見てみることにしたが、そこへの道がまるで分らない。向こうから来た爺さんに聞いてみると、だいぶ戻らなくてはその場所には行けないそうだ。戻るのは癪だが仕方がない。

爺さんは戻る道だから案内するという。見目麗しき女性ならよかったんだがなあ、と思いつつも一緒に歩く。爺さんは饒舌、87歳の今でもバス送迎の仕事をしている、むかし法政二校で甲子園を経験している、甲子園の経験は人生に大きなプラスになった、今は毎日4,5㎞歩いている、云々。

 

 

爺さんが案内してくれた城址への上り口は、さっき歩いた岸辺からちょっと奥まった場所だった。これでは見落とすも何もない、岸辺にも簡単な案内板があれば見落とすなんてことはないはず。川崎市、もう少し考えろよな。

小沢城跡へのルートは丘陵の尾根道、高くもないその尾根まで階段を上る。たちまちハアハア息が上がるのは日ごろの怠け癖のせいだろうと考えるが、登っては下り下っては登る尾根はなかなかきつい。ようやく小沢城跡に到着。

 

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ちょっとした平らな場所だけれど、説明板には頼朝の重臣、稲毛三郎重成の山城だったとある。北側が多摩川の流れの崖で要害の地だったとか。昔はこのすぐ傍まで多摩川の波が洗っていたらしい。今は2,3㎞北にその岸辺が移っている。南側にはよみうりランドがあるらしい。

城址の柔らかな若葉がとても美しい。 なのでここで昼飯、コンビニおにぎり1個をかじる。そこまではいいのだけれど、さてここからどこへ行こうかと考える。コピー地図によれば西側に「南山ありがたや墓石群」という文字が見える。そこへ行こうと思う。

そこへ行くのはいいとして、どこをどう行けばそこなのか全く分からない。携帯を出して様々見てみると、どうやらいったん地上に降りないとダメなようだ。ともかくも下る道を降りてみたら、「よみうりランド駅」前に出た。

駅員に「南山ありがたや墓石群」に行くにはと聞いたが、さてね地元の人に聞いてくれだと! ふん! 駅の向こうの店の脇を通りかかった普段着の、袋を下げた、今度はある程度見目麗しき女性に聞くと一発、入口まで案内するとのこと。神様はいるものだ。

 

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ここを山のほうに入るとそこなんだけど、いま宅地工事をしているらしく目的地まで行けるかどうか? という。ようやくという感じで細い道を上ると、お墓を撤去した後のコンクリの土台が無残にむき出しになっている。

その先は、浅い谷の上へ上へと墓地が並んでいた。またハアハア言いながら谷を上ると頂上が見える場所で思わず息をのんだ。目の前の谷間をびっしりと小さな墓石が埋め尽くしている。その数何百なのか見当もつかない。

朽ちかかった灰色の、墓石、地蔵像、五輪の塔、宝篋印塔、それらが横一列に幾段にもなって立ち並んでいる。なんだかうそ寒いような気がした。

 

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 文字も読めないような古く小さな墓石、目鼻立ちが定かでない地蔵、古い形の墓石、観音像やら阿弥陀像(区別はつかないが)やらの仏たち、それらに周りを取り囲まれたような気がする。読める文字を拾ってみると、おおむね江戸時代の年号が刻んである。

 

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 これはいったい何なんだ? この土地の人々のうんと古くからの墓石を処分しないで谷の奥に安置したのだろうか? と考えてはみたが、よくわからない。よくわからないけれど衝撃的な印象を受けた。谷間を降り向こうの街並みが見える場所で休憩、食べ残しのおにぎりを頬ばって考えてみたがよくわからない。

 

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下の民家で地元の人に聞いてみよう、なんと幸運にも八重桜が美しく咲く家からおじさんが出てきた。おじさんによれば、関東大震災の後、東京の谷中や駒込あたりから無縁仏をここに集めて祀ったのだ、とのこと。

しかし帰宅後ググってみたら、こんなことだったらしい。

1940年から1943年にかけて、道義的および宗教的理由により駒込地区に存在した無縁仏等がここに移動された。この移動作業を行ったのは「日徳海」と称する団体であり、現在もありがた山石仏群の奥にある仏舎利塔の奥に日徳海の施設が存在している。(ウェキペディア)

 

 

 それにしても、1940年から1943年は戦争中、その時期に無縁仏の供養のためにこれだけのことをした!? そもそも「日徳海」とはどんな宗教団体なのだろう。本部は稲毛市に現在もあるらしいけれど、謎は深まるばかり。

 

 

 

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謎だらけで頭が混乱、

後のことはまたあとで。

 

続きますねん。