だいぶ前の忘日、平成お徒隊、「五日市街道でも歩いてみっか」の日。
10時、丸ノ内線・東高円寺駅集合。天気よし、だが死ぬほど暑くならなければいいが。昔はとんと聞かなかった熱中症なるものが怖い、現代はなにごとも熱中してはいけない。すべからく程々、まあまあ、緩る~~くいこう。
われらが顧問の先生曰く。「こんな機会でもなきゃあ、高円寺から吉祥寺まで歩くんてことは絶対ないからねえ」と。そうか、そういう考え方もありだなあ、つまらなそうなこともやってみて損するということは、まあ無いわな。「そんな暇ねえよ、冗談じゃあねえ」という忙しい人は別だけど。
東高円寺駅前の「蚕糸の森公園」入る。昔ここに蚕糸研究施設があったよ、という石碑があるだけだけれど、そんなものでも見ると、わが日本にとってお蚕様はものすごく重要だったんだなあ、と改めて思う。公園の中は緑の樹木も多く、水の流れなどもあり涼し気、都会の喧騒をしばし忘れる。
有名(・・・らしい)、妙法寺へ行く。広大な境内、数多い伽藍、国宝級の宝物が山盛り、都会の中の静寂、木々の緑。おもいおもいに散らばってしばしの時を過ごす。御朱印帳を集める人あり、寺院にもこれがあったとは知らなんだ。信心の欠けらもない者には、これを集めてどうする! だけれど、人それぞれ、こころの中は分からない。
江戸名所図会。伽藍配置を見る。
基本的な伽藍は現在でも全くこのとおり。山門、祖師堂、本堂とほぼ直線。右手は庫裡の並び。現在はこのほかに鉄門、日朝堂、二十三夜堂などが複雑に並ぶ。ともかくまれに見るでっかいお寺に圧倒された。
写真は優美な山門を一枚。両脇に仁王様が睨んでいます。
裏の墓地に前野良沢の墓。現代とは墓石の形が違うな。ところでこの人、誰?
いったん新高円寺駅前に行く。目の前を青梅街道が走っていて、まあ、車がぶんぶん恐ろしかあ。五日市街道はこの辺りから青梅街道と分岐している。”この辺りから”というのはわさわさ変わってしまい本来の分岐点定かならず。
五日市街道ってそもそもなに? で、こういう時の便利ツールwekiさん登場。
徳川家康の江戸入府後、五日市(現・あきる野市)や檜原から木材・炭などを運ぶために整備された街道。初期には「伊奈道」と呼ばれ、伊奈(五日市より少し東にある集落)の石材を扱っていた石工が江戸城修築のため江戸へ行き来するための道として発展したが、修築が終わり木炭輸送が主流になるにつれ伊奈と五日市の重要性が逆転した。
だそうです。
ここから正式に(?)五日市街道をたどる。街道の何もない区間は面白くもなんともない、が、しかし面白くないと言って歩かなければ、ともあれ話にならない。面白くなければ道端の野菜直売など覗いて少し面白がるべし。
街道の難所、七曲りと言われた場所に差し掛かる。と言っても、善福寺川を渡るだけなのだから屁のようなものだが・・・。現在の街道はこともなげに突き抜けるけれど、旧道は右に左にくねって川辺まで降りて行く。考えるに、木材や炭を積んだ江戸時代の馬にとってみれば、こんななんてこともないような坂でも、ひ~ひ~はあはあ、やってらんねえよ、という難所だったかもしれないなあ。
下りきった場所に赤い前掛けの3体のお地蔵さんと、周りを取り囲む一叢の大木、これがかろうじて昔の街道の面影を残す。周りに三年坂と名づける坂道あり、この名称の坂道はなにやら暗い伝承ばかりの説明板もあった。近辺のお寺や神社に立ち寄って、休憩謙見学、何しろ先を急がないのだ。
善福寺川の緑地に降りて、さあ、お愉しみ、昼飯。女性軍は旨そうな手作り弁当をいそいそと広げるが、男どもはいずれも同じコンビニ握飯。さては、かーちゃんに邪険にされているな。もちろん自分もその例に漏れずどころかその代表者。
街道の途中に石仏を収めた覆堂がある。ところがこのお堂の扉は自由に開けることができる。一般的にこの手のものは麗々しくカギなどかけて、中が見られないように取り計らったものが多い。減るもんじゃなし。ここの氏子さんたちはエライ!
この辺りから終点の吉祥寺まではあまり見るべきところがない。黙々として我慢辛抱ただしぺちゃぺちゃしゃべりながら。吉祥寺の駅近くで武蔵野八幡宮と月窓寺に立ち寄る。最後は神社とお寺を、仲良く半分こというわけでもないけれどそうなった。
八幡宮はきらびやかで豪華なお寺、月窓寺は駅前アーケード街の喧騒地なるも閑寂の気配満ちて、みなひとときの物思い。・・・
ありゃりゃ、月窓寺の写真がない!! ないものは仕方がない。
これにて平成お徒隊、本日の店じまい。
7月、8月は、あっちち~~でお休みでやんす。