doniti 日誌

( おもしろき こともある世を おもしろく)

年中行事

                           ウェブサイトより拝借

 

忘日、「紫蘇の葉を毟って大小に分類せしめよ! 」と大本営命令が下った。

老後のこころを安らかに過ごすべく大本営命令には何があっても服従である。もしもこの命令に反した場合、たちまちにして大紛争勃発、以後数日、目も当てられぬ惨状が出来するは必定、触らぬ神に祟りなし、否 かーちゃん命令背くべからず。

 

 

床にどっかりと腰を下ろし、目の前に山と積まれた紫蘇の枝から命令に従って葉っぱを毟り取る。手のひらの半分より大きめな葉っぱはこちら、それより小さい葉っぱはそちら、と毟りながら分類せしめねばならぬ。

目を伏せて口を結んで何も考えず毟る、毟る。昔からこの手の作業が苦手、いつ終わるか見当もつかぬ、何回毟ればいいのか果ても見えず。トンネルの出口見えぬは拷問に等しかるべし。

とは思うけれど、黙々として手を動かしていると、いや不思議なことに山が低くなる。なるや否や無慈悲にもまたどさりと山の上に洗い終わった葉っぱを敵が積み重ねる。鬼いイ~。ここでうんざり顔を見せてはならない。

 

 

これは年中行事というべく、毎年この命令が発せられ毎年これに盲従する。たぶん今年も10日ほど前に紀州から10㎏の段ボールが届いた。この時も大本営命令「梅の頭の黒いヘタを爪楊枝で除去せしむべし」

つまり梅粒の木と繋がっていた部分にヘタが残っているのだが、それはほんの1㎜ほどの点、それを楊枝の先で突いて取り出す作業。これは山のような梅粒を一つ一つ突くことであり、どこまでやれば終わるのか、何粒やればいいのか! 出口見えず。

しかし梅粒が段ボール箱で届き、届いたからにはヘタ取りと紫蘇の葉っぱの分類命令が、下されること必定なりせば覚悟せねばならぬ。今更この命令に異を唱えても後の祭りと心得るべき、なにか言うのは許されず。

そもそも出来上がった暁に梅漬けを食うのは、なにを隠そうこの私だ。やんごとなき高貴な香りが馥郁とし、味わいは奥深い。だいたい年間を通してちびちび食う。経験によれば一番香りと味がいいのは夏から秋にかけてのように思う。命令者はどういうわけか、あまり食わない。

 

 

ものすげ~努力の結果、大きな葉っぱとちびた葉っぱとを分類せしめたり。大きなほうは梅漬けに使う。すでにして10㎏のヘタを取った梅粒は塩水にまみれて桶の中で溺れそうになっている。その溺れそうなやつとこの紫蘇を合わせるのだという。

そのために、毟り終えた大きな葉っぱに軽く塩を振って両手でもみもみするとだんだん葉っぱが纏まってくる。纏まった葉っぱをボール状にしてしばらく見て見ぬふりをし、しかる後にこのボールを力いっぱい、うん! と絞ると黒ずんだ赤い水が出る。

 

 

水けを絞った葉っぱは、次に梅が溺れそうになっている桶から梅酢を取出してそれでよく洗い、それをまた、うん! と 力いっぱい絞ると薄赤いきれいな水が出る。この色がとてもきれいで旨そうで。だが飲んではいかん。

絞った葉っぱを桶の中の10㎏の梅粒の上にまんべんなく乗せて、ハイ作業終了だという。「梅粒の間に葉っぱを均等にまぶしたほうがいいんでねえの」「いいのよ! 毎年こうやってるでしょ、もう、うるさいわね! 黙って言われたれた通りにしなさい! 」悪魔あァ~。

これにて旨い、香り良い梅漬けができるなら邪険にされようが足蹴にされようが我慢のし甲斐があるというもの。夏の終わりごろいそいそと数粒取り出して食ってみる楽しみがある。少ししょっぱいけれど、熟成されて奥深い梅の味と清々しいような香りが口いっぱいに広がるはずだ。

 

 

さて、毟り取った小さなちびた葉っぱはどうするのか。これは丑三つ時、命令者であるお婆が黒マントに身を包み、ちび葉っぱを大鍋に入れとろとろ煮詰める。このときお婆が薄気味悪くにやりと笑って何かへんてこりんなものを鍋に入れるのかどうか、それは知らない。

深夜、イヒヒヒヒと気味悪い笑いを浮かべ、大鍋の、葉っぱを取り除いた赤黒い液体になにやらかにやら 混ぜ込み、まるで毒液でも作るようにお婆がとりとろりと煮詰めるらしい。

そして出来上がった恐ろし気な液体。体験的には、歩いた後の疲労回復に抜群の効果を発揮し、深酒の二日酔いにも絶大なる効用を顕示せしめる。ただ、酒が飲めないから真偽のほどは分からないので、今度それを確かめるため深酒をしてみようと思う。

 

 

かくして年中行事終了。

爺婆二人きりになって、豆まきも端午の節句も、

ましてや恵方を食らうなど大それたこと全くしないが、

これだけは年中行事として定着しつつあり。