doniti 日誌

( おもしろき こともある世を おもしろく)

千住宿ひと巡り

      おもしろき こともある世を おもしろく

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千住宿ひと巡り(1)

 

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 12月の平成お徒隊の徒歩きは千住宿

 ”北千住といふ所にて電車を降りれば、前途二里半の思ひ胸に湧き立ちて、幻の江戸の巷に好奇の目をそそぐ。  行く年や風吹く千住で徒納め”

 

 

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 ほんとに自慢じゃないが、東京の切れっ端に住んでいて、北千住などという駅は降りたことも見たこともなかった。ここへ来るには、多摩を串刺しに縦断し、あまつさえ都内も縦断しなければならない。容易なこっちゃない。

 

 今回の企画・ガイドは、いつでも眠そうなⅠ氏だが、例により微に入り細を穿つが如き解説を特色とする。その手引書には、「千住宿とは、江戸4宿の一つにて日光街道に沿う”広さ東西14.5町、南北35町ありて、宿並間数1,256間、その左右に旅亭商家軒をならべて、旅人絶ゆることなく、もっとも賑はへり( 新編武蔵風土記稿)”」とある。

 

 

 

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  駅前のマルイの天っぺん辺りに宿場の模型(ジオラマ)があるというから、まずはまずは、と見に行く。念入りな工作による模型が2m×8mほどのガラス箱に並んでいた。工作模型を見るのは、爺婆であっても楽しい。だいぶ時間をとる。本音、表は寒し。

 

 

 

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 北千住駅を出て国道4号線と並行する旧日光街道に入る。幅5m程度であまり車が右往左往しないのがいい。雑多な商店が並び「千住宿」と染め抜いたピンクの幟もひるがえり、今は昔の、賑やかしさがある。

 この道を芭蕉さんも前途三千里の思いを胸にふたがらせて、たぶんとぼとぼと歩いたに違いない。われらは二里半だからいいけれど、三千里と来た日にゃあさぞかしその行く末が胸に詰まるだろうと思う。だからおそらく、とぼとぼと。

 

 

 

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①千住本陣跡

 は、跡形もない。看板だけだが、この辺りが本陣だよと示して、随分広い一角だったのだなと分かる。赤丸は明治の千住技芸娘組合の検番跡の由、ほかの場所でも遊女(飯盛女)の供養塔を見たけれど、つまるところそういう場所でもあったわけだ。今は昔。

 

 

 

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②横山家住宅

 都内と言えど、街道沿いに古い建物が全くないわけでもない。この建物は1855(安政2)年の建造(1936年一部改修)されたものとのこと。現在も住まわれているかと見える。もと紙漉き問屋を営んでいた旧家であり、宿場の伝馬役を務めた由。

 

 

 

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氷川神社・高正天満宮

 その昔、高梨某という者、童らに読み書きなど教え居りしが、後世を同居せる正木某に託し同時に信奉せる道真の像を与えたり。正木の孫に至り道真像を氏神氷川に祀るを思いつきて、曰く木を以て高正天満宮なりと。ちゃん、ちゃん!

 てなわけで、細かく、且つかすれた文字でびっしりと書かれた説明板を懸命に汗を流して(汗はウソ)読んだとですよ。その努力の結果がこれ↑(上記)ですたい。騙された、思うたです。

 

 

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④清涼寺

 旧日光街道から旧水戸街道が分岐している、その荒川堤のキワにあって、案の定光圀の「槍掛け松」などの説明板もあるが、面白かったのは「解剖人塚」。明治3年になってからだが、11人の死罪人をこの寺で解剖した、とある。

 執刀したのは日本人2名、アメリカ人1名、いずれも日本医学のパイオニアたち、と刻んである。この碑は昭和42に年に建立されたものだが、碑の真裏に明治5年に造られたという、簡素な砂岩の碑が残されていた。

 日本最初の解剖は玄白ではなく、山脇東洋という人が行ったらしい。玄白に先立つこと17年という。今頃になってナンだけれど、医学の進歩にためには解剖がなくてはならないことなのだ、とようやく最近になって認識した。なんでも遅すぎるやねえ。

 

 

 

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⑤名倉医院

 荒川堤の縁をぐるっと回りこんで、名倉整形外科医院の表側を見る。ビルになっていて、ここは何なんだろうと思った。ところがなんと、Ⅰ氏の説明によれば、江戸時から続く骨つぎの名医であって、当時から来診する人が引きも切らず、遠く全国にその名を知られた高名なお医者様なのだそうだ。

 広い屋敷地を回り込んで裏側に行ってみると、なるほどいかにも造のしっかりした民家がある。門を開けはなしてあって、見学可能らしいからづかづか入って、その庭の見事さにおっ魂消て、格子の間から思わず一枚。楓の紅葉のみごとさ!

 

 

⑥安養院 ⑦氷川神社

 名倉医院から旧日光街道の一つ西側の道を、スタート地点の方に引き返し、途中「安養院」「氷川神社」などを見る。氷川神社の境内には旧社殿が移築保存してあり、小さいながら形の整った素晴らしい建築だと思った。

 

 

 

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⑧勝専寺

 見てのとおり古風な門構えで、赤門寺と呼ばれているそうだ。朱色が美しく初冬の空に映える。と思って中へ入ると、本堂のこのギャップに思わずカクッと膝が崩れた。前面にある煉瓦の門構えはいったい何なのだろう。だが、徳川家の利用も多く、文人墨客が集い、千住宿の拠点の一つであった由。

 

 

 

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金蔵寺

 北千住駅前に戻ってきた。金蔵寺の門を入って左手を見ると、黒ずんで古色を帯びた石の塔が観音像(?)を挟んで二基。説明板によれば、向かって右の無縁塔は1838年の大飢饉の餓死者828人の供養のため、左は千住宿の遊女の供養のためとある。

 餓死も、無縁扱いの遊女も哀れであるが、昔の宿場の人々は、この哀れと思う心情をこのような形に残し、手厚く弔ったのだなあと思う。もしこの人たちが生きているうちにこのような供養を施したならば、その喜び百倍であったかも、などとふと思う。

 

 

 駅近くの飯屋で昼飯。

 毎度ながら、Ⅰ氏の企画は中身が濃いなあ!

  とても一度に書ききれない。

 後半は南千住駅の方へ行く。