千住宿ひと巡り(2)
北千住駅前の飯屋さんで、ワインなどこっそり2杯も飲んで昼飯をしたため終わり、さて午後の部に入る。今度は旧日光街道を南下して南千住駅の方へ行くらしい。
⓾千住問屋場及び貫目改所跡
ここの写真失念しましたねん、えらすんません。この場所は、伝馬継などの業務を行う旅人の便宜を図る、要するに現代の駅みたいなところ。義務付けられた人足と馬は50人、50疋であったというからやはり大きな宿場だナ。馬には150㎏も荷を積んだという。
その荷物が制限内であるかどうか調べたのが貫目改所。ワイロも横行していたらしいゾ。この場所は地方と江戸との産品と文化の結節点であると同時に、江戸人の遊興の場でもあった、と説明してある。
⑪千住やっちゃば跡
街道の両脇にずらりずらりと青物屋が並んでいた場所。今でも建物の脇に「⛰さ 元青物問屋 坂本屋 兼業たくあん卸」などと墨痕鮮やかにしたためた看板が出ている。もちろん現在は看板だけで普通の民家が並んでいる。
隅田川の北詰で国道4号線と合流。右手に小公園がある。現在の、青い千住大橋を背に矢立の初めの碑が建っていた。芭蕉さんがこの付近で船を降りたのだろう。それで、芭蕉が上陸したのは隅田川の南岸か、はたまた北岸かの論争があるらしい。どっちだって体制に影響なしでごぜえやす。
最初の大橋は1594(文禄3)年の架橋だそうだ。芭蕉が旅立ったのは1689(元禄2)年というからその時に大橋は存在していたことになる。しかし街道を歩く人は、概ね日本橋から出発するを旨とする。芭蕉さんもそうしたらよかったのに。
⑬円通寺
門を抜けると左手に黒々と木製の柱が並んでいた。よく見るとその柱のあらゆる場所に直径2cmほどの穴がびっしりと開いている。この柱の列は上野寛永寺の黒門を移築したものであり、穴は彰義隊の上野戦争に際しての弾痕だそうである。
火縄銃でさえこんな穴をあけるのだから、これでもって体に当たった日にゃあ堪ったもんでねえ。なんだか体が寒くなったようで、今更ながら鉄砲の恐ろしさが身に沁みる。後ろ側には自然石をぶっ欠いたような石碑が並んでいる。
肉太に書かれた「大鳥圭介」の碑が目立つ。だから墓ではない。その他名前を知らない(教養がないので)碑がおよそ30ぐらい乱立している。ここの住職が彰義隊の遺体を埋葬したのでこういうものが残されたらしい。
⑭小塚原回向院。同刑場跡
回向院の一般の墓地の隣に区画された一角があり、50基ぐらいの石碑が並んでいた。橋本佐内、吉田松陰、頼幹三郎など幕末志士の名もあり、これらは明治になって顕彰の意味で造られたものらしい。
ついでに、と言っては失礼かもしれないが、鼠小僧や高橋お伝などの名も見える。みなこの小塚原で刑死したのだろう。そう言えば、この刑場は草の原であったという。間口108m、奥行き54mというから、かなり大きな原っぱだった。
その草の露と消えた何百としれぬ命を、何食わぬ顔のお地蔵さんが見守っている。ともすると、刑死した怨霊が草原をさ迷っているような気がする小塚原も、このとぼけたようなお地蔵さんの顔を見れば、なんだかふっと気が軽くなるようだ。
さてさて、千住宿は見どころ満載山盛りだった。飯盛女の旅籠の面影、やっちゃ場の喧騒、芭蕉さんの句碑また句碑、彰義隊の弾痕、小塚原の無残などなど、ひとつの宿場によくもまあ、てんこ盛りに盛り上げたものだ。
そのようなことを静かに振り返ってみるべく、我らは南千住駅前のとある居酒屋に繰り込んだ。店主が青森の出だという店だが、自転車で通りかかったおじさんが「サバが旨いよ~」いうとおり、サバが旨かった。
肉厚で、刺身もちっとも生臭さがなく、締めサバ、焼きサバ、どれもよろし。駆けつけビールで乾杯し、焼酎は甲種か4合瓶3千円の高級品か、思い切って(われらは貧乏なのだ)3千円もの。これがまた大変よろし。
お湯割りなんてもったいない、と生で飲んだ。全く癖も匂いもない。す~っと喉に入っていくけれど、やはり酔うことは酔う。女性軍団も盛り上がり、南部せんべい汁を食したい、と言ったけれど、みな腹がくちくなって終了。
こんなあほなことばかりしていていいんだろうか。
いいに決まっている。
本日の歩行距離10㎞、少ない。