doniti 日誌

( おもしろき こともある世を おもしろく)

蕨宿・浦和宿巡り

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 11月の「歩けサークル」は、宿場巡りで「蕨宿」へ。

 中山道の宿場は、京に向かって江戸の板橋宿の次が浦和宿なのだが、この間14㎞と長いので、間に蕨宿を作ったということらしい。けれど宿場規模は家数430軒で、浦和、大宮宿をしのぐものだったという。

 

 蕨駅に下車するのは初めて、「もっと小さい駅かと思ったわ」と誰かが言ったが、11名集まったみんなの実感だったかもしれない。とは言え、荒川を挟んで大都市東京のすぐ隣だから、それなりの街であるはずなのだが。

 駅から西南に向かって真っすぐな商店街が続いている。その通りがなんとなく古めかしい感じがする。なぜだろうと考えてみたら、ずうっと並んでいる飾り街灯が、なんとも昭和らしい、過剰装飾のデザインだと気が付いた。

 

 その古めかしい商店街を1㎞ばかり歩き「蕨城址」に入る辻に来たとき、その事件は起こった。「私駅のトイレにケータイ忘れた! 戻る! 」(この世代はケータイ)。と言って駆けだしたら、「あら、私トイレで見つけたから駅に届けたわよ」という者が現れた。

 じゃ、一緒に戻ってくれないか、ということになって、もう一人があとを追いかけ、その間約30分、一行は蕨城址公園で大休止。蕨城は南北朝時代に築城されたという、沼と深田に囲まれた平城。戦国期には後北条と扇谷上杉との闘争の場だったらしい。

 ケータイ事件の関係者も戻って、蕨城址から隣の「和楽備」神社へ行く。蕨城址公園は城址とはいえ、今ではごく狭い。隣に市役所があり、神社も道路を隔てているので、当時よりもかなり狭くなったのだろう。神社には七五三の可愛い女の子たち。

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 旧中山道に出て、隣が車ブンブンの国道17号だが、こちらは車も少なくのんびり。「歴史民俗資料館分館」へ行く。明治時代の商家をそのまま利用したもので、和室に渋沢栄一直筆の書が掲げられ、「進徳修行(しんとくしゅぎょう)」と書いてあるそうな。

 今を時めく(らしい)渋沢栄一だが、大河ドラマにこれっぽっちも関心がないから、さっぱりわからない。しかしまあ、他の人は関心があるかもしれないし、何事も世間のことはひとしなみに関心を持つことが必用だろう。

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 資料館本館の方は、蕨宿のジオラマ和宮下向の文書類などが展示してある。古い文書の、のたくったような字を眺めていたら頭痛がしてきた。なんて書いてあるか、さっぱりワヤなのだ。仲間にはこのにょろにょろ文字を得意とする人もいるのだが。小さい展示場だが宿場関係に特化してすっきりしていた。

 2階には、これから行く三学院の文化財の絵など展示。大きな釈迦涅槃図、地獄変相図などが掲げられている。これらを見て、今ではせせら笑ったりするかもしれないが、当時の人々はそんなことは決してしなかったに違いない。

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 この場所には、蕨宿の本陣があったが、いま建物などはなく、小さく囲われたコーナーに説明板などがあるだけ。都市化が進展してきた中で、何とか昔の宿場の影を残そうという努力が見えている。えらいゾ、わらび。

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 宿場の面影と言えば、ところどころに残っている格子戸の古い建物(商家?)。現実に今も済んでおられるのだろうと思うが、出入り口などは閉ざされていた。こういう建物を残すのは、それなりに大変なことだろうからとても貴重に思う。

 宿場の建物を無理算段に観光地として残しているところもあり(例えば中山道奈良井宿など)、それはそれで素晴らしいと思うけれど、大都市近郊ではよくぞ残ってくれました、という思いが強い。 

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 さて、「三学院」には魂消た。恐ろしいほど巨大な本堂がどで~んと聳えている。近寄りがたいような威容を以て睥睨している。しかし境内の三重塔や鐘楼はどこか優しげである。極彩色の仁王門がなぜかユーモラスなのもおかしい。

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 旧中山道をずうっと北上してきて、そろそろ旧浦和市との境になる。付近には境を画する「境橋」があり、また道脇の一角の広場に、絵看板などで蕨宿の説明がなされている。その広場に火の見を模した時計塔があった。ガラス張りの中に人形が仕込まれてあり珍しいと思った。

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 旧浦和市域に入って、外環道の下に「一里塚跡の碑」。石碑と小さな祠があるだけだ。街道の一里塚は原形をとどめているもの、無残に削られたもの、跡形なきもの、様々だが、この100年の都市化がいかにすさまじいものであったかを想像する。

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 浦和宿に入る手前に「焼き米坂」というなだらかな登りがある。名の由来が、当時ここに焼き米を食べさせる立場茶屋が多かったことかららしい。たちまち思い浮かぶのが、そんなもん旨かったのかねえ! だが。

 旨い、まずいは二の次であって、蕨宿から浦和宿への途中、ちょっと小腹を満たす、あるいは旅の携帯食として大いに需要があったのだろう。飽食。食品廃棄の時代のわれらは、少しばかり想像力を働かせ、当時を慮ってみる必要ありや。

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 調(つき)神社は、平安時代以前の創建とみられる古社で、調とは租庸調の調、東山道時代、武蔵国の調はここに集められ、都へ運ばれたという。面白いのは、「つき」⇒「月」の連想から、境内入り口の守護は狛犬ならぬ「ウサギ」。なんだかなあ!

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 浦和駅近辺まできて、「玉蔵院」に立ち寄る。小ぶりで端正なお寺だが、なんとなんと! 境内が枯山水、これは初めてだなあ! 裏庭に枯山水を配したお寺は時たま見るけれど、本堂前面が白い砂利ばかり。

 一角に枝垂れ桜がある。樹齢百年以上とのこと、この季節は灰色の枝が空しく空に刺さっているだけだが、門からちらりと見える花の季節はきっと素晴らしい構図に違いない。かといってその季節にまた来るかと言えば、来ないなあ。

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 浦和駅に向かって折り返しの地点、浦和宿で市が立った場所。今はビルに囲まれた路傍に野菜を差し出すお婆さんの像のみ。それがかろうじて「やっちゃば」を忍ばせるよすが。願わくば、もう少しお婆さんをカワユクしてほしかったなあ。

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 そしていよいよ大詰め、浦和宿本陣跡地。ビルの陰の小さな広場(語義矛盾?)の一角に、大きな明治天皇行在碑と小さな本陣説明板。これでは誰でも大きい方を見てしまうのだから、本陣説明板ももっと大きくすればいいのに。

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 そして4時ころ、浦和駅で解散。だが、ほぼ全員が武蔵野線で帰宅だった。

 

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 浦和駅近辺はさすがに、県都だけあって高いビルが林立し歩道も広く大都会。蕨と比べればやはり歴然と違う。だが、こと宿場関係について言えば、蕨はこれを何とか引き立てようとし、浦和は、んなもの知ったこっちゃない、という顔に見えた。

 

 晩秋の晴天と穏やかな気温に恵まれ、いい一日だった。

 戸口から戸口まで、約15㎞。楽しい散歩。

 つぎもまた、楽しい日であるように。