秋がぐんと深くなって、そろそろ冬眠しなくちゃ!
冬眠する前に、久しぶりに丘陵の尾根道を歩いて来ようと思う。とは言っても、一番手前に見える、うんと低い尾根だから楽ちん…の筈が…尾根に登るのに何度も休んで、そうして息をと整えねばならぬ、という情けなさ。
たどり着いた尾根の道は落葉の道。さらさら、かさこそ、いい気分。木々にはまだ青い葉が残り、冬眠なんてまだ先のこんだ! と怒っている。今年、秋が温かかったような気がするがそのせいかな。
上を見れば色づいた葉っぱはわずか、少しくたびれてはいるが緑の葉が木にしがみついている。でも季節の変化は、それはそれとして受け入れるのだから、そんなに無理して青い葉っぱのまま頑張る必要もないけどね。
逆光を受けて煌めく葉っぱが美しい。葉が落ちてしまうと森は明るくなる。冬の明るくなった森の中をとぼとぼ歩く、それもまた楽しいような気がする。ただそうするには、冬眠しないで起きていて、億劫がらずに出かける必要がある。できるかな!?
何はともあれ、歩ける、ということはなんともいいものだ。近頃くるぶしの様子がおかしいので、歩けなくなる恐怖、みたいなのをうっすらと感じている。しかしそれは極うっすらとしたものであり、まあ何とかなるじゃろと高をくくっているのだが。
このまま、死ぬ時まで何とか歩くことができれば一番いい。他にはあまり必要なものは無いように思う。いまのところ、お金はないけれど何とか食うものは食えている。寝るに不自由を感じない程度の小屋もある。ぼろだけど、着るものも何とかなっている。
これ以上何がいるのだろうかと考えてみた。お金はどれほどあっても困らないけれど、無ければ無いなりにその範囲で、まあ何とかなっている。金儲けの才能も意欲もないのだから、要するに諦めるしかない。
その点、謀日大の謀理事長は、こちらから見ると、あの歳で、あの地位で、あの俸給で、それでも満足しないらしい。その欲求、その意欲、その才能は一面エライ! と思うところがある(意欲も才能もない身から見てだ)。
丘陵道のどん詰まりまで歩いて、滝山城の上から多摩川の流れを見下ろす。さすがに河原の草が茶色に枯れて、青い水はとろんと、流れているんだかいないんだか、静かな眺めだ。本丸跡の広場にもいってみる。誰もいない。静かな秋の陽が移り行く。
丘陵を降りて行くと、ぽっかりと田園の一画。稲の収穫も終わって、しんと静まり返っているが如き。よし、今日はあの中を歩こう、静かに陽が照って暖かそうだなあ。田んぼの畦道をゆるゆると行く。
田んぼや畑は今まさに眠りに着こうとし、ほっと溜息をついているようだ。冬はものみな休息の時期、ゆっくりと一年の疲れを取る期間なれど、人間にはこれがない。休めばいいのに、と思うのは怠け者の証拠だろうなあ。
日本はこのところ、何もかもへたり込んでいるように見える。経済はもとより、世界に誇った工業技術も、目を覆うばかりに停滞、衰退しているらしい。よくよく見ると、日本のあらゆる面で疲弊、不活性、閉塞が起きているようだ。
しかし考えてみれば、あ~んにもそんなシャカリキになるこたあない、かもしれない。ヨーロッパのように静かに円熟すればいいじゃないか? アメリカがおかしいのだ、回り続け成長しないと倒れる恐怖に震えているらしい。など埒もないことを思う。
はんかくさい話は止しにして、いつもの隠れ里に入る。なんとまあ、畦道に白いタンポポが咲いていた。一つだけでなく、あっちにもこっちにも白花タンポポ、という程度に見つけた。いまごろの季節に咲くものだろうか?
そうして帰りの最寄り駅へいく。途中の畑に、これもまあなんてこった、向日葵の大輪。今頃こんなものが臆面もなく咲いていていいのだろうか、と思うが、いいのだ、好きな時に咲いていて一向に差し支えなし、と言ことだった。
今日は短い散歩、12㎞。
この冬、冬眠しないで
起きていられるかどうか、楽しみ。