doniti 日誌

( おもしろき こともある世を おもしろく)

雨の隙間に

 

今日は「歩く会」

テーマは立川(府中)崖線。

 

 

 住んでいる地域を知るにつき、その地形は一つのカギだと思う。

 それで、多摩地域の顕著な地形、国分寺崖線、立川崖線、青柳崖線、いずれも大昔の多摩川が南東方向に流路を変える際、削り取った段丘涯だという。で、その一つを辿ってみようという趣向、なのだけれど。

 どういうはずみか、その前に昭和記念公園を一巡り、ということになった。立川駅に集合した時刻に、ちょうど雨も上がったようで、蒸し暑いはっきりしない走り梅雨の空模様だが、ま、降らなければ歩くに支障がないとする。

 

 

 昭和天皇記念館の1階で盆栽展が開かれていて、ついでだからとそれを観る。一行18名、老男老女の中には、こういうものに目がない、という人もあるやもしれず、見学者のない森閑とした広い会場をぞろぞろ観て回った。

 観ても、どれがよくてどれが悪いのか、ちんぷんのかんぷんである自分は、たちまち退屈して身の置き所がない。即ち入り口付近で幽霊の如く呆然と佇んで、皆の衆をただ待っている。時間はゆるゆると過ぎていく。

 

 

 公園を一巡りするについては、ぞろぞろと金魚の糞ではみっともないから、各自自由に見て回ることとし、ついでに勝手に昼飯を済ましたうえで、午後1時出口集合、ということなので、園内では一時解散状態になって、これがよかったか悪かったか?

 

 

 この時期の公園の花は、ポピーとネモフィラが人気のようだったが、何しろ雨が上ったばかり、花も葉っぱも濡れそぼって、皐月の陽光に煌めく姿には遠く隔たっていた。世の中晴れあがって燦々の日ばかりじゃないのだから、これもやむなし。

 とは言え、やはり気分もどんより、ということは否めなかっただろうと思う。花に合わせて団体行動をとるのは難しい。だからなるべく花なんぞ無視する計画を立てるようだが、しかしながらさりながら、春でもあればやはり花に惹かれる。難しいもんだ。

 

 

 ネモフィラは花の盛りを終えようとし、ポピーは雨の重みでうなだれていて、いささか残念な結末であったが、一行の中には、花なんぞ何の興味もない、と一顧だにしない御仁もいて、まことに人はさまざま。

 昭和記念公園は丘あり低地ありで、まっ平だった飛行場によくもこんな起伏ある地形を作り出したものだと、そっち方面に興味がわく。国の力を有無を言わさず投入しなければ、街中にこんな公園は出来ない道理、そのことを思う。



 ともあれ、そのようにして公園内をひととおり見て回ったのだけれど、自分の好みから言えば、人の手で万端整えられて、さあ、観ろ! と言われても、それはそれで、その覚悟で見るからまあいいのかもしれない、が、だ。

 いつまでも見厭きない景色は、どうしてもやっぱりどこぞの田舎の、畑や田んぼや野っ原の風景にしくはない。その違いがどこにあるのか、自分でもよくわからないが、整えられ過ぎて、花など植えられきれいすぎる、というのがなにか引っかかるらしい。

 田舎の景色と言えど、全く自然そのままであるはずはなく、人の手が入り過ぎるほど入ってはいるけれど、これ見よがしの花などはないから、何だか追っかけられるような気もしないし、自分勝手に風景に感心したり、またしなかったり、こっちの自由にさせてくれる風景だからいいなと思うのかもしれない。

 

 

 さて、各自勝手に歩き回って、歩き回ったのかひとところにじっとしていたのか、それは知らないが、昼飯も腹に入れたようではあるし、出口の広場の椅子でぼんやりとして集合時刻を待った。

 それで全員そろったから公園を出て、これからいよいよ立川崖線の現場に向かう。西立川の駅を素通りして街中を南に少し歩いて、東京都農林総合研究センターという厳めしい名前の敷地を通り抜けると、目の前が崖で即ち立川崖線となる。


  

 立川崖線は、青梅のあたりから約40㎞、調布と狛江の境目まで延々と伸びて、その辺りで消滅するらしい。また国分寺崖線の方は「ハケ」として有名であり、ハケの道、なんて名を着けられた道もあり、その下に野川の流れがあり、人によく知られている。

 一方、わが立川崖線は、崖の形がはっきりしないところもあり、その下に流れがあるのでもなく、至って曖昧朦朧としているのだ、という。その曖昧朦朧を曖昧朦朧たる老男老女が探しながら歩く、というところに妙味がある。

 

 

 それから立川市の歴史民俗資料館に立ち寄って休憩し、残堀川が直角に曲がっているところを見て、そこで変てこりんに盛り上がり、それから普斉寺というお寺に立ち寄った。普済寺には中世の地侍、立川氏の館があったという。

 立川氏は鎌倉幕府で一時活躍したそうだが、幕府滅亡の後たちまちにして戦国の世となった関東は、山内、扇ガ谷両上杉のどちらかに付けばどちらかに滅ぼされ、両上杉が後北条に滅ぼされれば、また復活したりして、立川氏も浮いたり沈んだりを繰り返して、とどのつまりは江戸期を待たずに滅亡したらしい。

 

 

 この寺には、立川氏文書と数多い板碑が残され、そこからこの地が立川氏の館跡だと言われている。いま、館を忍ばせる何ものもないけれど、裏の墓地に首塚があるという。誰の首なのか判然としないらしいが、一同、その塚の上に生えている松を首を長くして眺めて、もっともらしくふむふむと肯いてみた。

 

 

 

ふむふむと肯いてから、立川崖線はこのお寺の下からモノレールの柴崎体育館駅のあたりに続いているはずで、そっちの方へ歩いた。駅の下に小さな公園があり、今回はそこで終了、最後の休憩をたっぷりとって解散にした。

 

 

 

 飲んべえおやじだけが残って、立川駅近くで懇親。

 どういうわけか、たちまち酔って手元が狂い、コップを倒して

 テーブルに大量のしょうーちゅーを振る舞い

 面目はまるでなかった。