doniti 日誌

( おもしろき こともある世を おもしろく)

おやじ達の夏②

会津まで来て、「親方」の実家の空き家で、おやじが3人合宿生活をしている。

 

 

 

第二日目 

 

 合宿の朝、昨夜の大酒盛りの名残をとどめて、6時ころフスぼけた顔をぶら下げて起きてきた。そして、食パンにハムとトマトを挟んで食う者、昨夜の海苔巻をかじる者、さまざま、何しろおやじだし、面倒だし、調理は一切しないことに決めてある。

 「親方」が、今日は会津の更に秘境の「南会津」を案内してくれるという。なにしろ彼はこの地の出であるし、何事にも、大丈夫だよ、というのが口癖で悠揚迫らぬ態度だから、運転担当の「現場監督」ともども、大船に乗った気持ちになった。

 

 

 雨もよいの会津若松市を南に走って抜け、郊外に出ると雨上がりの清々しい青田が広がり、目が潤うような気がする。山肌が青く霞んで白い霧が立ち上っている。「ああ、ええなあ、雰囲気あるなあ」と現場監督がつぶやいた。

 会津盆地が尽きて山道となった。昔の会津西街道だというが、現在の街道とほぼ並行していて、こちらはほとんど車がいない。低い峠を越えるとき、右手に青いダム湖がちらりと見えたが、そのまま走り続けて、やがて大内宿に入った。

 

 

 親方によると、大内宿は江戸初期に会津西街道の宿場として整備されたが、のちの時代になると会津若松から白河へ抜ける街道が整備されることになり、大内宿の宿場機能は衰退していったと言いう。

 更に明治以降は自動車道路が阿賀川に沿った地域に作られ、大内宿はこれに取り残されたため、江戸時代以来の古い茅葺家屋がそのまま残ったのだそうだ。それを某大学の教授が見て、保存しなければならない、となり、現在の景観が保たれたらしい。

 

 

 宿場の中を歩いてみた。まだ時刻が早いせいか人通りもなく、土産物の店は大半が閉まっていた。道の両側を流れる沢水の音が心地よく耳に響く。開いている土産物屋さんを覗いてみると、どこにでもあるビニール袋の漬物、山菜、郷土玩具などである。

 これでは購買意欲が湧かないなあ、と思いながら歩いていて、現場監督が「とち大福が食いてえ」とのたまうので、買って喰ってみた。「普通の大福と変わらんね」親方がぼそりと言い放つ。お土産屋さんはもう少し何とか工夫がならんもんだろうか。

 

  

 大内宿から山道を下って現在の街道に付き当たった。この街道は昨日会津若松へ向かう際通った道だが、今日は逆方向へ向かって会津田島へ出て、昨日鬼怒川方面から来た場所を通り過ぎて峠道に向かう。

 峠道だと言っても何ほどもない。山道だなと思ったらトンネルがあって、抜けると舘岩の集落に降りてゆく。トンネルを抜けたら、どうゆうわけか空が曇ってきた。この集落の終わり近くに「前澤の曲屋集落」がある。

 

 

 山裾に10軒くらいの茅葺曲屋が眠るが如くに佇んでいる。親方の解説によれば、補助金を出して茅葺屋根を維持しているという。だろうなあ、特別な観光収入がないから誰だって今風の家に建て替えたい筈、維持するのは伊達や酔狂ではない。

 茅葺屋根も美しく整えられ、壁の漆喰も真新しく白く光っている。集落の中に人影はない。皆どこかに働きに行っているのだろう。静まり返った家々のに前に、花だけが風に揺れていた。



 舘岩の集落を抜けると、また別の街道に突き当たった。「沼田街道っていうだ」と親方。群馬の沼田と繋がる予定だったが、尾瀬の脇を通るので環境問題で断念、が、街道名はそのままらしい。街道は一本の川、伊南川に沿っている。

 伊南川は尾瀬の近くから流れ下って、只見川と合流、更に会津盆地からの阿賀川と合流して新潟県に入り阿賀野川となる由。この伊南川が作り出した浅い谷の中に、小さな集落がぽつんぽつんと繋がって続き、この谷筋がまさに会津の秘境なのだと。

 彼の解説によれば、これからその秘境の中の秘境、桧枝岐村に行くという。この村は谷筋の他の集落から離れた、ほんとに山奥にあって、村人の名字は星、平野、橘しかないし、言葉も会津ズーズー弁ではなく、いつの頃からか、どこからか流れてきた人々が住んだらしい村なのだという。

 

 

 桧枝岐村に向かって走る。両側に迫った山肌からまた霧が湧き出て、幽玄な感じを醸し「遥かに来た」と思わせる。桧枝岐村役場に立ち寄って観光地図をもらい、昼飯屋を教えてもらった。雨が降り出している、とたちまち本降りとなった。

 村中の一本道を歩いてみる。道の両脇にお墓が並んでいる。墓地とする平地がないからこういう具合になるのだろう。墓石の文字は星、平野、橘しかない。家は通り沿いに一列に並んで、背後は伊南川、そして山が迫っている。

 六地蔵が並んでいる、校倉造の昔の倉庫がある、「橋場のばんば」という縁切り婆さんの像がある。これら古い石像などが苔むした墓石とまじりあって道脇にあり、はるか遠い昔の村へ立ち戻ったような錯覚に陥った。

 村芝居、桧枝岐歌舞伎の舞台があるというので山側に入ってみた。舞台はほんとにこじんまりしたものだったが、なぜこの僻村に歌舞伎が伝えらているのかは親方にとっても「?」らしい。ざっと一渡り村の中を見たが、確かに隔絶された村、という感じが色濃い。

 

 

 雨が土砂降りとなってきて、飯屋探しはあきらめざるを得なかった。あったとしても果たして営業していたかどうか? で、少し戻って「道の駅」へ行ったが、食堂のメニューを見て現場監督が怒り出した。

 おい、いいかげんにしろよ、なんでどこにでもあるような山菜そばが1200円もすんだよ、こんなぶったくりの食堂で食えるか! あったまに来た、650円のラーメンで上等だ、ああ、貴重な昼飯一食分を棒に振っちまったぁ~。

 さすがの親方もこれには怒った。だいたいこの村のいいところは、残されている秘境の佇まいなのに、近頃観光客におもねってか、やらずもがなの観光施設など作ってこの体たらくじゃなあ、近い内に誰も来なくなるなあ!

 

 

 気を取り直し、桧枝岐を抜け出して伊南川に沿って街道を下っていく。伊南の集落に泥色の温泉があるそうで、そこでひとっ風呂だそうだ。さっきの桧枝岐でも鄙びたいで湯に浸かるつもりが雨ざーざーで止めたので、今度はぜひともいい湯だナをやりたい。

 行ってみて。がび~~ん!! お休みだと! 今日はどうも親方の思いがいまひとつちぐはぐになるようだ。親方は暫し黙していたが、だいぶ行ったところにいい温泉がある、そこはたぶん大丈夫だ、とつぶやいた。途中の集落で地酒の旨いのを買った。

 

 

 只見の街にほど近い「湯ら里」という温泉を親方が案内した。ここに観光施設とは無縁の「村湯」という小さな温泉があり、近隣の人たちがもっぱら利用するらしい。2畳ほどの湯船に薄茶色の湯が揺蕩い、地元おっちゃんが3人入っていた。

 よそ者だから遠慮しいしい、とぽんと浸かる。少し熱めの湯が体の中にまで沁み込むような感じがする。大きな窓の外に伊南川の流れが見え、その脇を緑鮮やかな田んぼが取り巻いている。いい景色だし、なんだか生き返ったなあ!

 

 

 そして只見の街中を抜け、田子倉ダムへ行く。ダムの堰堤に向かって走ると、逆に堰堤がこちらに迫ってくる感じで、ともかくデカイ。堰堤に登って水の塊の向こうを見ると越後の山々が遥かに重なっている。また土砂降りになった。

 近くの山の山肌は巨大な匙でこそげ取ったように削れていて、緑の木立を透かして岩盤が露出しているのが見える。訊けばここは大雪が積もり、春になると雪の重みが山肌を削り取って三角錐のような形にしてしまうのだとか。嘘のよう現実。

 JR只見線はこの直ぐ近で六十里越えのトンネルを抜け、新潟まであえぎながら走っているはずで、六十里越え(実際はそんなにない)は戊辰戦争で長岡の河合継之助が落ち延びた峠である由。



 それから柳津までひた走りに走り、斎藤美術館(柳津の版画家のギャラリー)も虚空蔵尊(会津では名のあるお寺)も、5時過ぎていて、チ~~ン、閉館。ここでも田舎のいで湯に入りたかったが、何しろ遅くなったのであきらめた。

 目の前の只見川のゆったりと流れる川面を眺め、果たして俺たちは何をしとるんだろうか、といささか内向したり、まあ、早く合宿所に帰ってそそくさと大宴会を催すに限る、と思ったり、今日の終わりが見えてきてなんだかほっとした。

 

 

 今日一日、伊南川沿いと只見川沿いを巡ってきたのだが、どちらも確かに耕地というものがほとんどない。わずかな河岸段丘の広がりに畑や田んぼが少し見られるだけで、産業どころの騒ぎじゃなく工場、事務所すら見当たらなかった。

 しかしそれだからだろうか、静かな山里の風景、緑濃い山、透きとおった川の流れ、どこを見てもこころ安らぐ景観が連続していた。当地の人には申し訳ないが、たまに訪れるなら、こんな夾雑物の全くない田舎がいいなあ、とつくづく思った。

 

 

 それで南会津、奥会津の秘境を抜け出し、会津盆地の端っこの坂下に出て、またひた走りして会津若松駅のスーパーで今夜の飲み料、餌類を買って合宿所に帰り着いた。この夜は昨夜の轍を踏まず、親方ののほほんとした話を中心に大人の宴会である。

 しかし心はどんがらがったの大饗宴であり、飲みかつ呑み、食いかつ喰らい、ゆるゆると解き放たれ、大内宿には魂消ただの、雨の桧枝岐は寂しいのう、だとか、緑の山の中腹に湧き出す霧がなんといえんなあ、だとか、それなりに盛り上がったのは言うまでもない。

 早めの、12時に寝床に入ったが、会津の秘境の夢は見なかったような気がする。

 

 

つづく