doniti 日誌

( おもしろき こともある世を おもしろく)

石神井川~板橋宿へ

 

だいぶ涼しくなってきたので「歩く会」再開。

今回は石神井川の岸辺を辿って板橋宿へ行くそうだ。

 

 

 

 今回のコースはk氏が初めて設定を担当し、それをいつものⅠ氏が強力にバックアップして作成したという。いろんな人が様々な立場でコースを設定してくれるのは、「歩く会」マンネリズム打破の上からもとてもいいことだと思う。

 それで出発地は王子駅、と言えば、我が住む多摩の奥地からすると大変遠い。多摩地方を串刺しに縦断し、あまつさえ都内も縦断して、もはや埼玉県境に近い。なじみの薄い電車に乗るので、腹に力を入れ、一大決心を胸に抱いて集合地に着いた。

 

 

 北口に降りてみると、出口直ぐのところが川になっていて、本流は駅の下に潜り込んで向こう側につながっているらしき気配。この石神井川も小金井のゴルフ場あたりから延々東流、ここまで旅をしてきたのだから、やあ、大変だったね、と労わりたい気分。

 10:00になってみんなが揃い、11名のろーとる軍団は勇躍として進軍、川辺の遊歩道の、涼しい木陰を元気に歩く(はじめだけはいつも元気がいい)。コンクリート3面張りの石神井川は、3mぐらいの深さの底にとろりとした水面を見せている。

 

 

 歩くほどに、だんだんと参加者が打ち解けはじめ、石神井川の源流はそもどこか、みたいな話になった。小平の鈴木小学校付近である、うんにゃ、小金井カントリーの中である、などなど、話が大盛り上がりになってきた。 

 行くほどに石神井川の蛇行跡なども現れてきて、旧河川跡に「緑のつり橋」などいう本格的な、ただし玩具のように短い吊り橋があった。都内に吊り橋! 余り方々にあるとは思えないから是非とも渡ってみなくては、とゆらゆら揺られて渡る。


 

 川の近くの「金剛寺」に立ち寄る。石橋山で敗れた頼朝が兵を集め、巻き返しを図って府中大國魂神社へ進軍する途中、この地に布陣したという伝説の寺だそうだ。そういう説明板があるだけで、もちろんそれを偲ばせるものは何もない。

 ただ、よく手入れされた境内の植栽の、涼し気な緑がありがたい。今日はどういうわけか、われらを祝福してか、それとも虐めるつもりか、ピーカン照りの極上天気、年寄りはこれにやられる、木陰が無ければたまったもんじゃない。

 

 

 川べりに戻って、また蛇行跡。ここでは階段で流れの近くまで降りることができる。説明板によれば、江戸時代も桜、紅葉の名所であった由。江戸名所絵図に「両岸高く桜楓の二樹枝を交え、春秋共に眺めあるの一勝地なり」とあるそうだ。

 今見れば、川の流れを引き込んだ水たまりに蓮が大きな葉を広げ、花は終わって、その実がゆったりと風にそよいでいた。全く知らなかったのだけれど、この実はたいそう栄養があるとのこと、道っぱたの実は何でも食う身としては迂闊、食ったことがない。

 

 

 そこから反対岸にわたると、道脇に子育観音が真っ青な空を背にして、どっしりと座っておられた。蓮の花の上に乗り、左手に花を掲げて、罪深き衆生を諭すが如き目を向けている。なぁ~むあみ~だぶつ、ち~~ん。

 すぐそばの寿徳寺には、なんと、あろうことか、アショーカ王の獅子像が据えてあって、これには魂消た。後ろにインド各地を訪ねた記念の石柱があるので、推測だけれど、住職が旅行してこれを建てたのではと思う。並んで彫りの深い釈迦像もあった。

 

 

 

 さて、いよいよ加賀藩下屋敷跡へ行く。さすがに百万石の大大名、上屋敷中屋敷下屋敷それぞれ膨大な面積だが、この石神井川のほとりに、ぬわ~んと! 21万8千坪の(想像も推測もつかない)、藩主の別荘としての下屋敷があったという。

 説明板を見ながら、おい、この下の方の線はが中山道だろ、とすると川からその近くまで、5,6㎞ぐらいありそうだな、なんちゅうバカげた広さだっ! 敷地を一回りしたら日が暮れていただろうなあ。みなあきれ返ってため息のみ、かぼそく。

 説明板の細かい文字を拾い読みしながら、呆然となって辺りを見回すと、目の前が20mほどの小山で、これが築山だという。いったいどこから土を運んで盛り上げたものだろう。反対側を見回すと3mほど下がって、ずっと向こうまで家並みが建て込んでいるが、その辺りに回遊池泉があったのだろうかと、無理やり想像してみる。

 その池を越えて、はるか先の茫々と煙るあたりまで下屋敷の地が広がっていたようだが、もう想像も憶測も投げ出すしかない。敷地の絵図を見ると、さらに西側へ縹緲と続いているらしく思われるが、もうため息も声も出ないんである。

 

 

 これだけのバカでかい敷地ゆえだろうか、明治期には火薬工場や爆薬実験室、旧陸軍の爆測試験所など、事あればいささか危険な諸施設があり、その一部は遺跡の如く今も現存している。ただし、どれが何なのか、よくわからなかった。

 

 

 加賀藩下屋敷跡の、百万石の威容に圧倒され、そこから石神井川を離れて東光寺にいく。ここには秀吉の五大老、宇喜田秀家の供養塔がある。関が原で西軍に属し、八丈島に流され死亡したが、明治になって許され、秀家の妻が前田家の姫であった縁から、この地に供養塔が立てれたという。

 その供養塔は、丸石の上に傘石が二つ重なったような少し変わった形ながら、枝垂れ桜の葉陰に鎮まっていた。それもさることながら、隣の地蔵尊がおもしろかった。ちょいと小首をかしげ、その辺にいるおっさんのような顔つきをしている。

 



 さてさてお待ちかね、昼飯をしたためるべく、公園に行く。野球場、動物園兼用の公園で、羊やヤギ、ポニーなどが子供たちと遊んでいる脇に、涼しげな木陰があってそこでめいめい弁当を広げた。休日で子供たちも大勢いる。

 何より昼飯が楽しみである。食うものはせいぜいコンビニおにぎりのようなものだが、何しろ腹が減っているし、野外だし、普段は不味くってもここでは大変にうまい。女性陣は手作り品を持参しているらしいから、なおのこと旨いだろうと思う。



 昼飯の後、旧中山道板橋宿に入った。小さな、しかしきらびやかな商店がびっしりと並んでいる。人もわらわら歩いている。車はめったに通らない。かっての宿場の賑わいが今も続いているような、そんな浮き浮きした気分にさせてくれる。

 「歩く会」で今までに品川宿千住宿、八王子宿と訪れたが、ここ板橋宿がいちばん宿場町らしい雰囲気を醸し出しているように思う。下宿、中宿の商店街が賑やかで、シャター通り商店街にはなっていないところが救いのような気がする。

 

 

 そして旧中山道石神井川が交差する「板橋」に着いた。何年か前、初めてこの橋を見て、板で作った橋があるから地名が板橋か、と思った。しかしそれはどうも変だ。仮にも幅10m以上の川に架かる橋である。板っぱじを寄せ集めて橋を作るかあ??

 確かなことは言えないけれど、たぶん、地名が先にあったのだと思う。何しろ地名は相当古い時代から存在したに違いない。現在の橋は一見すると木材で作ったように見えるが、触ってみるとコンクリート製である。



 「板橋」を渡るとすぐに「縁切り榎」がある。もともと天神様の神木だったと言いうことだが、どうしてこんな名がついたのだろう。なんだか切実な事情があったのだろうなあ、とかすかに推測することができるのだが。

 かの和宮さんが下向の折、これを気にして迂回した、いや榎をコモで包んで隠した、などという言い伝えもあるようだけれど、それはほんとのことなのか、それとも後になって誰かが口から出まかせを一発かましたのか、杳として知れない。

 

 

 旧中山道が現在の17号線と合流して、車がんがんの遮るもののないうるさい道を、暑さにバテバテになりながら途中2軒のお寺に立ち寄り、立ち寄るたびにへろへろとへたり込んで、志村の一里塚に着いた。日本橋から3番目の一里塚。

 17号線の両側に石垣を築きその上に榎が植えられ、国の史跡に指定されている。榎はまだ少年と言ってよく、何回も々々も植継がれ植え替えられたであろうと思う。その維持は大変だろうけれど、おかげをもって今に昔を偲ぶよすがとなっている。

 

 すぐ近くに地下鉄「志村坂上駅」があり、

 再び都内を延々縦断、多摩を串刺しにして帰った。

 帰りがけに途中下車して、ちくと一杯。完了。