がんばれ、オヤジ

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忘日も、忘々日も、そして忘々々日も梅雨空、仕方がないからネット逍遥。

ネット上のブログの数に、まあ驚く。どれほどの数なのか想像もつかないけれど、地上の人の数より多くはないだろうとは、ようやく想像できる。ブログを書き、コメントしあい、時に意気投したりして、世の中の人の在り方さえ変えてしまうのでは、と思う。

 

ブログのテーマ(何について書くか)も実に多岐多様に亘っているいるようで、まず日々の食べ物について、がある。これは毎日のことなので、ネタがなくて困る、という事態にはならないに違いない。巧い事を考えたものだ。

趣味に関するものがある。料理、釣り、自転車、車、旅行、登山、ハイキング、和歌、俳句、畑、植物、昆虫、・・・趣味だけでも数えきれないが、その一つ一つに書かれるブログが存在してそうだ。なんという世の中になったんだ!と年寄りはため息をつく。

 

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その中で、退職おやじが深くふかく嵌まり込んでいるのが、車中泊全国行脚ではないかと思われる。車は旅のあいだ生活の場となるものであり、キャンピングカーだったり普通の車を自ら改造したりするらしい。

これでもって行きたいところへ走り、そこで何事かをしたりしなかったりし、夜は道の駅、公営の駐車場、キャンプサイトなどに停めてしかる後、飯を食いに行ったり風呂に入ったり、驚くのはほぼ毎日車中で自炊したり、そうして朝を迎え、またどこかに流れていく。流れないでお気に入りの場所である期間留まることもあるらしい。

このように車中泊をするに都合のいい施設が全国的に整備され、または整備されつつあるようで、いつの間に!? とこれまた魂消てしまう。食うことについては、コンビニ、スーパーなんでもあって、何でも買えるから全く問題はないように見える。

 

それでこれが退職おやじに大人気であるらしく、退職期限を待ち構えていてその時が来たら、それっ!行けえええ~っとばかり飛び出すようでもある。中には退職を待たずにして、車を改造し整え、中での暮らしおさおさ不都合が無きよう備品を揃え、家族への根回し十分、もういつでも飛び出すべく、その日を待ち焦がれている人もあるとか。

いったい何が、退職おやじをかくの如く駆り立てて止まないのだろう。まず、退職しなければ全国行脚はちと難しい。女性にとってこれは少しヤバヤバだろう。とすると可能なのは男であってかつ退職者ということになる。

 

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しかしどうも見るところ、男で可能だから、というよりも、男にとってどこかを流離うこと、これが悲願の夢であって、また居ても立っても居られないほど希求して止まないもの・・であるらしいのだ。

それに対し、女性はそれが可能だとしても大部分の人は乗り気になれないらしい。(もちろん個人的には当てはまらないけど)退職おやじが準備万端、さあ、となり、奥様にどうじゃ一緒にと誘っても大体は振られてしまうのだそうだ。かってに行ってよ、というわけらしい。

 

これは如何なる訳のものなのだろうか。確かに「亭主元気で留守がいい」は珠玉の名言であるらしいし、旦那が退職して毎日家にいるのが鬱陶しくて堪らんとです、というのも聞いたことがある。

となると、狭い車の中、もう見飽きるほど見てきた顔がすぐ目の前にあって、それが毎日まいにちであれば、もしかして鬱陶しいを通り越して気が変になりそう、という案配にもなりそうだ。

 

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  しかし・・・実は、もっと深いふか~~い理由があるように思う。それは、男は一か所に留まらず放浪する動物であるが、一方女性は(巣がある)場所にとどまって動かない動物である、というもの。

 これは神がそのように造り給うたのか、はたまた遺伝子のなせる業なのか、詳らかではないと言えど、男女それぞれの生まれながらであり、決定論であり、個人のいかんともせざるところなのだ。女性がふらふらしていたら子供は育たん、と思うがですよ。

 

かくの如く、男の放浪、女性の停滞、その理由としたるものは深淵にして運命的であり、動かさざるべき真実・・・ってな塩梅になっちゃったけれど、

これでいいんだろうか!?

 

ともあれ、退職おやじたちよ、

男どもの夢を乗せて

車中泊全国行脚、れっつ・ごお!

 

 

 

 

年中行事

                           ウェブサイトより拝借

 

忘日、「紫蘇の葉を毟って大小に分類せしめよ! 」と大本営命令が下った。

老後のこころを安らかに過ごすべく大本営命令には何があっても服従である。もしもこの命令に反した場合、たちまちにして大紛争勃発、以後数日、目も当てられぬ惨状が出来するは必定、触らぬ神に祟りなし、否 かーちゃん命令背くべからず。

 

 

床にどっかりと腰を下ろし、目の前に山と積まれた紫蘇の枝から命令に従って葉っぱを毟り取る。手のひらの半分より大きめな葉っぱはこちら、それより小さい葉っぱはそちら、と毟りながら分類せしめねばならぬ。

目を伏せて口を結んで何も考えず毟る、毟る。昔からこの手の作業が苦手、いつ終わるか見当もつかぬ、何回毟ればいいのか果ても見えず。トンネルの出口見えぬは拷問に等しかるべし。

とは思うけれど、黙々として手を動かしていると、いや不思議なことに山が低くなる。なるや否や無慈悲にもまたどさりと山の上に洗い終わった葉っぱを敵が積み重ねる。鬼いイ~。ここでうんざり顔を見せてはならない。

 

 

これは年中行事というべく、毎年この命令が発せられ毎年これに盲従する。たぶん今年も10日ほど前に紀州から10㎏の段ボールが届いた。この時も大本営命令「梅の頭の黒いヘタを爪楊枝で除去せしむべし」

つまり梅粒の木と繋がっていた部分にヘタが残っているのだが、それはほんの1㎜ほどの点、それを楊枝の先で突いて取り出す作業。これは山のような梅粒を一つ一つ突くことであり、どこまでやれば終わるのか、何粒やればいいのか! 出口見えず。

しかし梅粒が段ボール箱で届き、届いたからにはヘタ取りと紫蘇の葉っぱの分類命令が、下されること必定なりせば覚悟せねばならぬ。今更この命令に異を唱えても後の祭りと心得るべき、なにか言うのは許されず。

そもそも出来上がった暁に梅漬けを食うのは、なにを隠そうこの私だ。やんごとなき高貴な香りが馥郁とし、味わいは奥深い。だいたい年間を通してちびちび食う。経験によれば一番香りと味がいいのは夏から秋にかけてのように思う。命令者はどういうわけか、あまり食わない。

 

 

ものすげ~努力の結果、大きな葉っぱとちびた葉っぱとを分類せしめたり。大きなほうは梅漬けに使う。すでにして10㎏のヘタを取った梅粒は塩水にまみれて桶の中で溺れそうになっている。その溺れそうなやつとこの紫蘇を合わせるのだという。

そのために、毟り終えた大きな葉っぱに軽く塩を振って両手でもみもみするとだんだん葉っぱが纏まってくる。纏まった葉っぱをボール状にしてしばらく見て見ぬふりをし、しかる後にこのボールを力いっぱい、うん! と絞ると黒ずんだ赤い水が出る。

 

 

水けを絞った葉っぱは、次に梅が溺れそうになっている桶から梅酢を取出してそれでよく洗い、それをまた、うん! と 力いっぱい絞ると薄赤いきれいな水が出る。この色がとてもきれいで旨そうで。だが飲んではいかん。

絞った葉っぱを桶の中の10㎏の梅粒の上にまんべんなく乗せて、ハイ作業終了だという。「梅粒の間に葉っぱを均等にまぶしたほうがいいんでねえの」「いいのよ! 毎年こうやってるでしょ、もう、うるさいわね! 黙って言われたれた通りにしなさい! 」悪魔あァ~。

これにて旨い、香り良い梅漬けができるなら邪険にされようが足蹴にされようが我慢のし甲斐があるというもの。夏の終わりごろいそいそと数粒取り出して食ってみる楽しみがある。少ししょっぱいけれど、熟成されて奥深い梅の味と清々しいような香りが口いっぱいに広がるはずだ。

 

 

さて、毟り取った小さなちびた葉っぱはどうするのか。これは丑三つ時、命令者であるお婆が黒マントに身を包み、ちび葉っぱを大鍋に入れとろとろ煮詰める。このときお婆が薄気味悪くにやりと笑って何かへんてこりんなものを鍋に入れるのかどうか、それは知らない。

深夜、イヒヒヒヒと気味悪い笑いを浮かべ、大鍋の、葉っぱを取り除いた赤黒い液体になにやらかにやら 混ぜ込み、まるで毒液でも作るようにお婆がとりとろりと煮詰めるらしい。

そして出来上がった恐ろし気な液体。体験的には、歩いた後の疲労回復に抜群の効果を発揮し、深酒の二日酔いにも絶大なる効用を顕示せしめる。ただ、酒が飲めないから真偽のほどは分からないので、今度それを確かめるため深酒をしてみようと思う。

 

 

かくして年中行事終了。

爺婆二人きりになって、豆まきも端午の節句も、

ましてや恵方を食らうなど大それたこと全くしないが、

これだけは年中行事として定着しつつあり。

 

 

 

あれこれ五日市街道

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だいぶ前の忘日、平成お徒隊、「五日市街道でも歩いてみっか」の日。

10時、丸ノ内線東高円寺駅集合。天気よし、だが死ぬほど暑くならなければいいが。昔はとんと聞かなかった熱中症なるものが怖い、現代はなにごとも熱中してはいけない。すべからく程々、まあまあ、緩る~~くいこう。

われらが顧問の先生曰く。「こんな機会でもなきゃあ、高円寺から吉祥寺まで歩くんてことは絶対ないからねえ」と。そうか、そういう考え方もありだなあ、つまらなそうなこともやってみて損するということは、まあ無いわな。「そんな暇ねえよ、冗談じゃあねえ」という忙しい人は別だけど。

 

 

東高円寺駅前の「蚕糸の森公園」入る。昔ここに蚕糸研究施設があったよ、という石碑があるだけだけれど、そんなものでも見ると、わが日本にとってお蚕様はものすごく重要だったんだなあ、と改めて思う。公園の中は緑の樹木も多く、水の流れなどもあり涼し気、都会の喧騒をしばし忘れる。

 

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有名(・・・らしい)、妙法寺へ行く。広大な境内、数多い伽藍、国宝級の宝物が山盛り、都会の中の静寂、木々の緑。おもいおもいに散らばってしばしの時を過ごす。御朱印帳を集める人あり、寺院にもこれがあったとは知らなんだ。信心の欠けらもない者には、これを集めてどうする! だけれど、人それぞれ、こころの中は分からない。

 

江戸名所図会。伽藍配置を見る。

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基本的な伽藍は現在でも全くこのとおり。山門、祖師堂、本堂とほぼ直線。右手は庫裡の並び。現在はこのほかに鉄門、日朝堂、二十三夜堂などが複雑に並ぶ。ともかくまれに見るでっかいお寺に圧倒された。

 

写真は優美な山門を一枚。両脇に仁王様が睨んでいます。

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裏の墓地に前野良沢の墓。現代とは墓石の形が違うな。ところでこの人、誰?

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いったん新高円寺駅前に行く。目の前を青梅街道が走っていて、まあ、車がぶんぶん恐ろしかあ。五日市街道はこの辺りから青梅街道と分岐している。”この辺りから”というのはわさわさ変わってしまい本来の分岐点定かならず。

五日市街道ってそもそもなに? で、こういう時の便利ツールwekiさん登場。

徳川家康江戸入府後、五日市(現・あきる野市)や檜原から木材・炭などを運ぶために整備された街道。初期には「伊奈道」と呼ばれ、伊奈(五日市より少し東にある集落)の石材を扱っていた石工が江戸城修築のため江戸へ行き来するための道として発展したが、修築が終わり木炭輸送が主流になるにつれ伊奈と五日市の重要性が逆転した。

武蔵野台地新田開発が進むと、多摩地域と江戸を結ぶ街道の一つとして発展した。

 だそうです。

 

 

ここから正式に(?)五日市街道をたどる。街道の何もない区間は面白くもなんともない、が、しかし面白くないと言って歩かなければ、ともあれ話にならない。面白くなければ道端の野菜直売など覗いて少し面白がるべし。

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街道の難所、七曲りと言われた場所に差し掛かる。と言っても、善福寺川を渡るだけなのだから屁のようなものだが・・・。現在の街道はこともなげに突き抜けるけれど、旧道は右に左にくねって川辺まで降りて行く。考えるに、木材や炭を積んだ江戸時代の馬にとってみれば、こんななんてこともないような坂でも、ひ~ひ~はあはあ、やってらんねえよ、という難所だったかもしれないなあ。

下りきった場所に赤い前掛けの3体のお地蔵さんと、周りを取り囲む一叢の大木、これがかろうじて昔の街道の面影を残す。周りに三年坂と名づける坂道あり、この名称の坂道はなにやら暗い伝承ばかりの説明板もあった。近辺のお寺や神社に立ち寄って、休憩謙見学、何しろ先を急がないのだ。

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善福寺川の緑地に降りて、さあ、お愉しみ、昼飯。女性軍は旨そうな手作り弁当をいそいそと広げるが、男どもはいずれも同じコンビニ握飯。さては、かーちゃんに邪険にされているな。もちろん自分もその例に漏れずどころかその代表者。

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街道の途中に石仏を収めた覆堂がある。ところがこのお堂の扉は自由に開けることができる。一般的にこの手のものは麗々しくカギなどかけて、中が見られないように取り計らったものが多い。減るもんじゃなし。ここの氏子さんたちはエライ! 

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この辺りから終点の吉祥寺まではあまり見るべきところがない。黙々として我慢辛抱ただしぺちゃぺちゃしゃべりながら。吉祥寺の駅近くで武蔵野八幡宮と月窓寺に立ち寄る。最後は神社とお寺を、仲良く半分こというわけでもないけれどそうなった。

八幡宮はきらびやかで豪華なお寺、月窓寺は駅前アーケード街の喧騒地なるも閑寂の気配満ちて、みなひとときの物思い。・・・

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ありゃりゃ、月窓寺の写真がない!! ないものは仕方がない。

これにて平成お徒隊、本日の店じまい。

7月、8月は、あっちち~~でお休みでやんす。

 

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トロッコの俤

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梅雨空だからと言って、部屋の中で食っちゃ寝のぐだぐだをしているといくない。

腹は出るは体にカビが生えるは気分も鬱陶しいは、う~~む・・・よっこらしょ、一発狭山丘陵でも歩いてくっか。で、モノレール北の終点武蔵村山市上北台駅で降車。ここからうだうだ西に歩いて目標は東京都瑞穂町、箱根ヶ崎駅

狭山丘陵は東京都の北西にぽつんと独り取り残された多摩丘陵の削り残し、おそらく太古、どういうわけか多摩川入間川の氾濫がここだけ残して周りを削り取り、孤島のように森と緑が残された・・・らしい。

 

モノレールはこの駅で終わり、線路を支える支柱が空しく空を区切る。じっとりと湿気がまといつき、歩くには面白くないけれど、やむを得なければ即ち仕方がない(百閒ぱくり)。狭山丘陵へ向かって歩き出す。

この地域はモノレール以外に電車の便がないことから、あの猛烈な開発から取り残された。おかげで古い石仏や石碑が多く残されている。それらを見て歩くのもいいが、それだけだと余りに爺むさい。狭山湖を作る際に使われたトロッコの俤でも訪ねてふらふらするべえか。

 

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  道脇に古い石仏が残されている。それも単に残しているというより、むしろ大事にされている気配。狭山丘陵の麓は丘陵からの湧水があるので、中世以前から水田耕作が行われていたらしい。そのころ多摩地域の大部分が役にも立たない茅野が原だったので、人々はこの丘陵の麓に住んでいた。

だから古い石仏があるし猛烈な開発もなかったことから、いまだそれが残され大事にされているのだろうと思う。それを思うと路傍の朽ちかけた石仏と言えど、酔ってむやみに足蹴にし、倒したりしてはいかんゾ。

 

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 真ん中は今まで見たことがない「水天」様。村山貯水池の水没地から移転、と説明板。

 

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大日如来坐像。堂内安置のため保存良好、隙間からパチリ。

 

至ってイケメンの仏さまだっている。これは如意輪観音、涼しげな眼もと、きりっと結んだ形いい口元、しかも石仏では珍しく背が高い(154cm)。ただイケメンの特徴として手が早い、なにしろ6本もある。そして長寿、慶安5年(1652)から生きている。

 

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 さてトロッコ。大正から昭和にかけ東京都の水道拡張のため村山貯水池、山口貯水池(狭山湖)が前後して作られたのだが、玉川上水羽村の堰からそれぞれの貯水池まで導水渠が掘削されて水道管が埋設された。その資材運搬にトロッコが使われた。軌間61ミリ。

ロッコの線路は先に完成した村山貯水池までの水道管の上に敷かれたが、最終的には昭和19年に撤去、現在は自転車道として活用されている。村山貯水池の下からその道をたどってみようと思う。鬱蒼と夏木立が茂る中に伸びる一本の道。

 

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 ごく狭いトンネルが三本(本、でいいのか?)ある。いずれも短いし明りもあるから幽霊は出ないらしい。幽霊どころか中はひんやりして心地よい風が吹抜ける。昔の人が苦労して貯水池を作り、水を引いてくれたから今知らん顔で水を好きなだけ使っている。

 

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  丘陵の麓に禅昌寺がある。ここには「陸軍少年飛行兵学校」生徒戦没者の、大変美しい慰霊塔がある。若干14,5歳の少年たちが、祖国の危機に際し猛訓練を重ねた学校そのものは別な場所にあったらしいが、生き残った者たちが永代の供養を願いこの場所に慰霊碑を建立したという。特攻隊450を含む4500柱の御霊を鎮める。

白く輝くすっきりとした五輪の塔を見ていると清々しい感じさえする。(清々しいなんて寝言を言ったら怒られるかも)。最近よく思うのだけれど、我々の現在の生活はすべて、前の時代に生きていた人々の努力の上に成り立っている。南無~である。

 

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 このお寺には、江戸時代に小平の小川村を開発した小川九郎兵衛の墓もある。表で作業していた住職に聞いて墓へ行ってみた。真ん中の古い宝篋印塔がそのお墓であるらしく思われたが、小平の小川寺にある墓と戒名が違うようでもあり、判然としない。

この人もまた武蔵野にとって忘れてはならない人だと思う。何しろ人の住まない茅野が原の武蔵野の原野に初めて村を作った。以来武蔵野の開発が進み、時代を追って町として発展し、とどのつまりに現在がある。やっぱり南無~。

 

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禅昌寺の脇の小道を丘陵の谷間へ入っていくと、 田んぼ里山が美しく保全されている。谷地地形で谷間の奥から水が湧き出し、その水に頼って田んぼが作られていたらしい。今ではボランテァによる管理だが、かっては何よりも大切なコメを、細々とではあるが作っていた、武蔵野にとっては貴重な場所。古い農家が復元移築されている。

 

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田んぼの脇の小道のベンチに座ってぼんやりしている。向かいの雑木林がさわさわと葉擦れの音を立て、白い裏葉を見せて風が渡っていく。その風は街中のと違ってひんやりとして爽やか、空気が旨いという言葉があるけれど、風が旨い。

いつまで座っていても飽きない。育ち始めた苗も、緑の濃さを増していく木々の葉も、みな清々しく目に映る。ボランテァの人達によってよく手入れされた畔も小さな流れも雑木林もまことに美しい。未来の子供たちはこの風景を美しいと思うのだろうか。

 

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 夕方5時、箱根ヶ崎駅前、モツ煮込み屋さん。恐ろしく陽気な御かみさんがいた。闊達で人の気をそらさない。何か言っては、かははは~とよく笑う。ウイスキーの水割り2杯も空けたころ、こちらも好い心持になって陶然。

話題として、最近ずっと読んでいたブログ、トラックの荷台に居住の小屋を作り、全国を放浪した人の話をする。で、御かみさんも車に寝床を作ってご亭主と全国放浪の旅に出ろよ、今流行っているらしいぜ、とウイスキー三杯目にはいささか酔った。いいわねえ、やるんだったら亭主は置き去り、一人で行くわ! かはははは~。 

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本日の歩行距離は15kmぐらい。

途中でカメラの電池がパ~(スイッチ切り忘れ)

後半はスマートフォンカメラ、だが結構写る。

雲の向こうに夕日が沈む。(酔っているのか斜めだね!  )

 

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越後信州駆巡ー帰るー

 

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 12時ころ、糸魚川市役所をゆるりと出発、これより千国街道(R148)を南下する。

 R148に入るとまず最初は姫川を中にして左右遠く青葉若葉の山並みが続き、とても開放的な気分になる。が、やがて少しづつ左右の山並みが近づいてきてぴたりと挟まれ、姫川が渓谷をなし 、国道R148は川に寄り添って曲がりくねる。

そして曲がりくねったままスノーシェッドに突入、出たなと思ったら今度は長い長いスノーシェッド、引き続きトンネル、またたく間にまた スノーシェッド、トンネル、トンネル、スノーシェッド・・・延々、延々と続く。

 

 

これじゃあ千国街道を眺めてみたいどころの騒ぎじゃない。 スノーシェッドとトンネルの壁に激突しないようハンドルを切り続るのがやっとのこと。どこまでもそれが続いた。たまにそれが途切れた場所に「フォッサマグナ・パーク⇒」の看板を見かけたものの立ち寄るこころの余裕はなかった。

帰宅後のことだが、これは由々しきものを見損なったと思った。こんなものが見られる場所はそんじょそこらに転がっているものではない。何故そんなに先ばかり急ぐのか! もちっとゆるゆるとした心がなぜ持てんのか! バカ者メ。

 

 

これも帰宅して調べてみたのだが、古の千国街道(塩街道)がよく保存され残っているらしい。ネット検索ではこの R148よりもだいぶ山側に、延々として糸魚川から松本まで続いているという。画像を見ればぜひとも歩いてみたくなる古街道だった。

こういうことも調べずに、ただただすっ飛んで走ることに何の意味があろう。どうせ何もしない暇人なんだから、先を急ぐ必要は何もない。それなのに、ただわあわあ言って飛び歩く自分は本当のバカだと思うが、そのときはそうは考えなかったのだ。

 

 

スノーシェッドとトンネルが切れた場所の向こうに、山肌が無残に崩れた大きな山を見た。樹木の生えた地面が、皮膚が剥がれたように何か所もずり落ちていて、茶褐色の地肌がむき出しになっている。スノーシェッドとトンネルばかり潜ってにいるから見えないが、このほかにもいくつもあるのだろうな、と思う。

崩れた土砂が姫川の流れを遮って大洪水を起こした個所もあるらしい。そういう荒々しい千国街道の深い谷を目にするには、車ではなく大糸線に乗るのがいいのかもしれない。宮脇俊三さんの本にそれが触れられている。

 

 

少し開けた場所に、道の駅「小谷」があり、嬉しいことに温泉が付属している。これはありがたやと温泉に入る。「源泉かけ流し」と表示されているがかけ流しはともあれ、湯は薄い茶色を帯びて本物の温泉であるようだった。

しかし旅にしあれば草枕、のんびりと湯の中でうたた寝をする余裕はない。そそくさと汗を流し、せかせかと内湯につかり、そわそわと露天風呂入り、せわしなくあがってさっぱりとした。 

 

 

        (画像は道の駅hpから。何しろ走ってばかりで写真がない)

 

 

ここはまだ新潟県だとばかり思っていたが、あとで、長野県であることを知った。千国街道のうち新潟県はほんの少しなんだと改めて思わされた。ついでながら、ここの「小谷」が信長に滅ぼされた浅井長政小谷城の地だとばかり思っていた。それを言うとある人の言うじょう、「年寄りの思い込みってホントに怖いわねえ! 」

 

 

湯に入ってさっぱりして少しばかり落ち着いて、走り始めると長い長いトンネルに入った。ようやく抜け出て小さな集落が現れては後方に飛び去って行くのを眺め、そうして目の前がパ~~っと開けてきた。

正面に残雪が輝く高い山が屏風のように立ちはだかり、手前の低い山々には新緑が初々しく萌えたち、その美しさに思わず声を上げ目を見張った。白馬に出たらしいと分かった。あまりの美しさに路肩に車を止め、一枚だけ写真を撮った。

 

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出来ればこの素晴らしい光景をパノラマで写しておきたいと思ったが、先へ進んでもちょうどよいアングルが見当たらない。ろくに生えていない後ろ髪を引っ張られる気持ちで、振返りふりかえりしつつ通過してしまった。

帰宅して酒を飲んでいた時、なぜこの時ここにとどまって白馬の村中を歩かなかったのか! と非常に悔しい思いが湧いてきた。理由もなく急いだばかりに「フォッサマグナ・パーク」と同じように過ぎて帰らぬ光景を見落としてしまった。ナミダがポロリ。

 

 

さて、それはともかく、これから松本⇒甲州街道⇒自宅では、陽が暮れるどころではない、へたすると朝になるかもしれない。そこで白馬⇒信州新町⇒上田⇒佐久⇒野辺山⇒韮崎⇒甲州街道と、ひたすら山越え山越えのルートをとることとし、そのルート上の道の駅を伝い走るべく機械に命じしめる。

白馬から東に連なる緑の山に入り、途中からやおら脇の細道をぐんぐん登って川沿迄下って「道の駅、信州新町」、「挽きたて打ちたて茹でたて」と看板が出ている。前途三千里の思い胸にふさがりて、ここで腹ごしらえをしようと思う。 

 

 

               (画像は同所hpより。食ったのもこれと同じ)

 土産物販売所の脇に「そば信」という店があり、看板通り蕎麦を切っている人があり茹でている人があり、何よりざる蕎麦500円、天ぷらがついても850円と安い。ざる蕎麦来る。山もり。少しぽきぽきする感触だが結構旨い。越後はつるつる喉越し、信州はぽきぽき噛応え、と見つけたり。

 

 

国道19号を善光寺平へと下るが、なるべく善行寺方面に背を向け狭い回廊を上田方面に進路をとる。ああ、右肩の先あたりに姥捨ての景観があるのだなあ、と感じる。再び見て見たい気もするが、まあ、止めておこう。

バイパスで上田市街地を回避し、「北国街道海野宿」を再訪しようとしたがこれも止した。何しろばかナビは自宅帰着が10時ころになると嘘ぶいている。こうなれば一度見たところは立ち寄らないことにしよう。

 

 

そして小諸市に入り、右へ折れて一気に佐久平に駆け下り勢い余ってたちまち野辺山まで駆け上り、一憩してから清里を通過して韮崎へと転げ落ち、20号線に入って甲府バイパスの渋滞でまたかと思い(このバイパスはいつでも渋滞する欠陥道路)、それでも抜け出て大月相模湖無事通過、8時半ごろ帰着した。

 

 

越後信州駆け巡り、一泊二日の距離数約730㎞。

酒を飲みつつ思い起こして大反省。

先へ先へとやたら急ぐべからず、気を落ち着けるべし。

そわそわせかせかの性格治すべし。

次回は、ゆったり走ってどこでも止まってゆるゆる歩くべし。

 

さて、次どこへ行こう。

 

 

 

越後信州駆巡ー糸魚川までー

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忘日、良寛の里、道の駅「天領出雲崎時代館」を8時過ぎ出発、海側の道を西へ走る。

とりあえず目指すは糸魚川、なぜと言えば千国街道(R148)の谷筋を見てみたい。ただそれだけのために延々西走、しかしながら右窓に広がる日本海は青くたおやかに輝き初夏の風になぶられながら走るのは得も言われぬ心地なり。

左窓は緑輝く山が道路直ぐ近くに迫り、それが少し開けたところには、わずかばかりの民家が固まってうらうらと春の日を浴び眠っている。そんな民家が海岸線に沿ってぽつんぽつんと現れては消え、まことに長閑で気分がいい。

 

 

柏崎市に入った。今朝は同じ道を戻ってくるのでは、と通懸念したが朝は山側、いまは海側、どちらもまるで景色が異なり、両方見られて得した気分になった。すると行く手がぐぐっと曲がって内陸側に入るが、しばらく走ってまた海岸線に出た。

どうやら原発の敷地を回避したらしい。その敷地は広大で深々とした森に囲まれていて、車窓からは建物など一切見えない。原発というのはどうやら途方もない広さの敷地が必要なものらしい。少なからずおっ魂消た。

原発を過ぎ海側に美しい松林が続き、やがて柏崎港に差し掛かる手前でカーナビゲーションが内陸側へ入れと指示してきた。そして国道8号線に合流した。この国道ははるか遠き日、若気の至りで石川県の小松までバイクで走ったことがある。のだが、その面影はどこにも残っていないようだった。

 

 

市街地を出ると8号線は海岸に寄っていき4車線から2車線となったが、ところどころからまた海が見える。青い海が広がると心も伸びやかに広がる。やがて上越市に入りまた海から少し遠ざかったが、大した渋滞もなく市街地を通り抜けた。

今度は海岸線の絶壁を走る。樹木が途切れたところから時たま見える、紺碧に光る日本海が美しい。前方をトラックが列をなして走り、山際のほんのわずかな平地に民家が数軒固まっている。いかにも寂しげな集落の佇まいがなぜか懐かしく思われる。

う~む、そうだ、若かりしあの日々、バイクから確かにこんな風景を見たんだ、と思い出が蘇ってきた。そのとき夕暮れの迫る国道を一人ぽつねんと走る自分を侘しく思ったのか、目に映る家々は潮風にさらされて白茶け、いかにも貧しげだった。今は当時と違い立派な建物に変わってはいるが、海岸線に細々と数軒寄りそう佇まいは変わらない。

 

 

上越市とは何ぞなもし、と後で糸魚川のコンビニで聞いたところ、直江津と高田となんだかが合併したのだ、と教えてくれ、そのバイクの旅の一日、直江津で泊まったことを思い出した。淋しい漁港に夕日が沈んでいくのを眺めたような気がする。

あの時の旅も今回と全く同じ無計画、無思慮、無謀なものだった。行く先未決定、泊地未決定、宿未決定、走るところ未決定、簡単な地図一枚を手に適当に走って夕暮れ、駅で宿を紹介してもらって、なに構わずそこに泊り夜の街にふらつき出でて一杯飲んだ。そんなことを思い出せば、歳を食った今もちっとも変わってないなあ!

 

 

 

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                        (同市hpより)

その糸魚川市役所に11時頃到着し、スマートフォンの案内でそば屋を探し、ようよう行ってみたら、おばさんが「すみませんね~、まだなんですよー」と。だけどもう昼の時間なんだけどなあ~。仕方なく○○食堂に行ったら「まだやってねえ~」と。

糸魚川は小さな町のようだ。だからその土地によるやり方があり、食堂は夕方から始まるのかもしれない。旅人が好き勝手な時に入ってきて昼時に飯を食わせろなんて太ぇ考えかもしれない。もういいや、もう食堂なんか探さない! コンビニで上等、市役所の前の芝生のベンチでそよそよ風に吹かれておにぎりランチ。

 

 

さてこれより千国街道(R148)を南下する。姫川沿いのこの街道の険しさ厳しさは宮脇俊三さんの大糸線沿線本などで想像し、一度この目で見たいと思っていた。何しろフォッサマグナの西縁、糸魚川静岡構造線が通っていて、崖崩れ山崩れ、おまけに姫川の氾濫が加わって災害頻発、多くの死者がでてなんでもエライところらしい。

 

ヒトはどんなところにでも住んでしまう。

そして悲しい涙を流しつつ、なお住み続ける。

ヒトは本来不撓不屈なのかもしれない。

 

 

  

越後信州駆巡ー出雲崎ー

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忘日、十日町にて早朝に目が覚めた。エラク寒い。

寒いから朝飯を食ったとです。ナビゲーションを出雲崎にセットし、出発するとです。運転は一応するけれど、どこをどう通るのか分かりましぇん、機械にただ使われるだけですたい。十日町よさらば、また来ることは、・・・ないだろうなあ。

 

 

また北に向かって山を越えるらしい。信濃川を渡る。川岸一杯に満々と青い水が流れていく。対岸を少し走り山襞に入り込む。低い山だからそれほどのカーブもなく直ぐにトンネルを越えれば緩やかな長い下り坂、どうやら道路標識からすると柏崎に行くらしい。とすると出雲崎からまた柏崎に戻って西へ行くことになるのかな?

平地に降りて大きな道路に突き当り右へ行く。市街地を出れば田んぼが広がり、至って車の少ない広い道路を坦々と走る。だんだん平地も尽きて山裾のようなところを通り抜けていく。寒さはいつの間にか消えて風が心地よい。木々の緑が陽に煌めいている。

 

 

 

出雲崎良寛記念館到着7時ころ、当然のことにして記念館は開いていない。計画が大幅にずれて、というより最初から無謀な計画だったので、やむを得なければすなわち仕方がない(百閒パクリ)。それにしても周りに誰もいないなあ。

 

 

記念館がある場所から海岸に向かって屋根付きの階段が下っている。どこへ出るのか見当もつかないけれど、とにかく下る。降りきって道路の下をくぐるとマッチ箱を並べたような街並みが広がっていた。

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「妻入りの街並」というのだそうだが、 いずれの家にも現に人が居住しているらしい。まさか観光のためにこんな規格品みたいな家々を作ったわけではないだろうと思うが説明板によれば、こんな街並みがなんと4キロメートルほど延々続いているとか。 

 周りを見渡せば、なるほどここは大変な場所だ、背後にすぐ山が迫り波打際までおそらく100mもない狭さ、そこに隙間なくびっしりと家々が並んでいる。おそらく江戸の昔からこのような家並みがあったのだろうと思う。

 

 

その一角に、青い日本海を背にして「良寛堂」というほっそりした御堂があった。この場所が良寛の生家、橘屋があった場所だという。名主さんの家柄だというから有力者でもあり、裕福な家だったのだろうと思う。しかも良寛さんはその長男に生まれている。

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御堂の裏側、一段低くなった場所に良寛さんの座像がある。遥かに青くかすむ佐渡を見つめているような後ろ姿は、どこか寂しそうだ。手毬をつく良寛さんではなく、心の中に底知れぬ虚空を抱えた良寛和尚の姿なのかもしれない。

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良寛さんほど禅の心を体現しつつ、その生涯を貫いた人はいなかったのでは、と思う(などど知った風な口はご法度だが)。本来無一物、五合庵に閉塞し身のまわり何もなく、ようやく命をつなぐだけの糧をもらい寒さに震えて生きている。

執着するものが何もないから、里の童と一日中手毬をついて遊んでいる。将来の蓄えも里人の評判もなにひとつ気にしないから、隠れんぼで日が暮れ一人取り残される。金も食い物も溜め込まず、権力に近づかず、ただ命の最低限で生きてゆく。

 

名主の跡取りに生まれたものがどうして、と思う。名主見習い中の18歳で突如出家、この時良寛さんの心に何があったのだろう。その生涯はとても余人の真似できることではないと思うが、座像の海を見つめるその目つきは鋭い。

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・・・良寛のことも禅のことも全く知らないタワケがこんなことをほざいていいのか!いくないと思う。よくないのだけれど、良寛さんの顔を見て、何かつぶやかなければと思った。幸いあたりに人がいなかったのでよかったけれど。

 

 

さてさてこれで、あとは糸魚川まで行こうと思う。

そこに目的はなにもないけれど、千国街道を見てみたい。

うらうらと初夏の陽が照っているほどに。