doniti 日誌

( おもしろき こともある世を おもしろく)

小仏よろよろ(甲州街道・小仏バス停~相模湖)

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 高尾駅の改札を出たら、ちょうど小仏行のバスが発車していった。

 あと20分近く待たねばならない、やんぬるかな、やむを得ざれば、駅付近をぐるっと回って時間をつぶし、そしてバス待ちの列に並んだ。ほとんど風もなく、立春を過ぎた陽ざしは眠気を誘うほどぬくぬくと暖かい。そのへんで昼寝でもしたくなった。

 

 小仏のバス停(折返し所)で降りたハイカーは10人ぐらい。両親に連れられた小学生の姉妹は浮き浮きと足も地に着かないほどうれしそうだ。皆これから小仏峠を越えるのだろうが、年寄りだからそっと一人で歩き出す。

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  バス停からしばらくは舗装の道が続く。先日立ち寄った寶珠寺のあたりは日影になっていて、道端の水たまりがカチカチに凍り付いていた。ぶるっと寒気がしたが、日向に出れば早春の温かさ、今日はどうやら春らしい一日になりそうだ。

 舗装された道のどん詰まりにちょっとした駐車場広場があり車がいっぱい、ここに駐車した人は何処へ行ったんだろう、小仏峠に登って高尾山の方に抜けたら車が回収できないし、山菜摘みにはまだ早いし、う~む謎だ。

 

 

 駐車場の先からは砂利の山道となる。標高369.51mの水準点標識があった。小仏峠の標高が548mだから、これから200m弱ほど登るわけだが、たかが200,されど200、ほんの少しうんざり。ま、頼まれもしない好き勝手をしているわけだから、文句は言えない。

 その辺の棒切れを拾って杖にしながら、よたよたと登る。後ろから来た背の高い中年にたちまち追い越された。下手をすると小母さんにだって追い抜かれる。なんといっても敵は山ガールで経験豊富、叶いっこない。

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 山道を登りながらこう考えた。人は好きなことだけやって暮らしていけたらどんなに素晴らしいだろう。だから、「好きなことをする!」と宣言して、広く遠く世界を歩き回ったり、旅から旅へと暮らしている主として若い人に強烈に惹かれる。

 特に若い女性がたった一人、治安混沌のアジア、アフリカなどを歩き回っているブログなどを見ると、最初から終いまで何日もかかって読み通してしまう。その理由は、われらの時代は『深夜特急』であって、そこに若い女性の影はなかったのに、今、彼女らがあっけらかんとそれをやってしまうことに、驚きつつ「なぜ?」が付きまとうからだ。

 人生は短い(歳をとるとひとしお身にしむ)、だから好きなことだけやって暮らす。それに異議も文句もない。しかし人生は短いけれど、生きていれば歳もとる。そのときに、好きなことだけをしてきた人はどうやって生活していくのだろうか、と思う。

 

 

 砂利の道は傾斜が緩いからまだしもだが、それが終わって土の山道に変わると、少しきつくなる。10歩登ってはあはあ、5歩歩いてひーひー、登るより休む方が長い。年々歳々春は来るけれど、体力は年々確実に落ちてゆく、ああ!

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  はあはあ、ひーひーでどうにか登り切った。峠の頂上は、陣馬峠、景信山からの道、高尾山、城山からの道、そして旧甲州街道の道が交差して、人が多い。しかしお互い十分距離を取れるので、休憩して握り飯を一個食った。

 たかだか峠道を200mほど登っただけだし、バス停から歩き始めて1時間ほど、2,3㎞歩いただけだし、何ほどのこともないのだが、もう登らなくてもいいのだ、と思うと大いに安どの気持ちが湧く。歳だなあ、歳は取戻しができない、情けなや!

 

 

 峠の頂上には少し広い場所があり、そこに明治天皇行幸碑などが建っている。碑面の文字は難しくて読めないけれど、なんでも天皇はこの峠を輿に乗って越えられたとか。当然それを担ぐ人がいたはずで、重かっただろうなあ、と同情を禁じ得ない。

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 さて、ここからは登りはない。武蔵国から相模国へと参ろうか。これは現在の県境であるが、昔の国境が同じであったかどうだったのだろう。ともあれ、相模国へ入っていく気分で歩く。人影がなく独りぼっち感がまたいい。 

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  県境のあたりは、ほんの少し平らな道がある。杉林の中に青木が冬にあるまじき青い葉を茂らせている。子供のころ、この木を切って、皮をトントンと叩いて木の芯をすぽっと引き抜き、刀と見立てて遊んだ覚えがある。そんな昔の時間は戻らない。

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 道は両側が土手のように高くなって凹地となり、傾斜のある下りになった。雨が降ったら真ん中が川になるに違いない。杉や雑木の枯葉が積もっている。かさこそと乾いた音を 踏みしめて、よたよたふらふらと下っていく。

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 山道を下りながらこう考えた。歳は取戻しができないし、時間もまたしかり。しかしそもそも時間とは何だろう。過去も未来も、触ることも見ることもできない。ならば時間として存在するのは、この今の一瞬だけだろうか? 

 しかし今の一瞬はたちまち過去になってしまうし、未来はどうなるのか予測もつかない。それを考えると、もしかしたら、時間なんてものは存在しないのではないか? 人間が勝手に作った観念ではないのか? 自然界における「成長」と「繰返し」とを見て、人間が時間というものをでっち上げたのではないのか!?

 しましなあ、物理学では時間というものを扱うらしいから、厳として存在しているものなのだろうか? 相対性なんちゃらなどというと、頭が割れるほど痛くなるから考えないようにするけれど、しかし時間とはなんだ!?

 

 

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 鉄塔の下が草地になっていて、そこでぬくぬくと陽を浴びながら休憩。甘いお菓子を食っていると、後ろの道を若い男女が影のように走り抜けていった。あろうことか、こちらがよろよろ下っている道を走っているらしい。

 その後、今度は向こうから走って登ってくる若い人数人に出会った。人がひーひーよたよたと越える峠を、こともあろうに走って越えるなんて!! こんなことがあっていいものだろうか、べらぼうめ、飛んでもねえこんだ。

 

 

 やっと峠を下り終えた。標高差200mぐらい、距離は5㎞ぐらいの峠越えだが、なにはともあれ終わった。右が下ってきた峠道、左は美女谷へ続く里道、向こうの中央高速はなにやら工事中。ほっとして立ち止まったら、峠道から大急ぎの小母さんが汗を拭きながら降りてきて立ち去った。負けたね、やれやれだなあ。

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 美女谷へ続く道を行くと、眼下に小仏トンネルを抜けてきた中央線が緩やかに弧を描き、向こうに底沢の谷が続き、頭上には中央高速の赤い橋げたが見える。あんなに高い橋げたを、飛んでもないスピードで車を走らせていたのか、と思うと寒い。

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  美女谷へ続く分岐まで来た。照手姫が住んでいた美女谷がなんちゃら、という看板があった。そこには昔鉱泉が湧いていたらしいが、今はその影もない。だから、もう美女もいないだろう。真っ直ぐ底沢バス停に向かう。

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 紅梅が喜んでいるような春の陽ざしの、緩やかな下り道を歩く。周りに人影もなく、まどろんだような谷筋を、ことさらにゆるゆると歩く。暮れることを知らないような里道を、長閑な時間をさらに引き延ばして歩く。

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 間もなく、大垂水峠を抜けてきた国道20号線に突当り、そこに底沢バス停がある。車がぶんぶん走っている。ここからは国道の歩道をゆく。歩道の脇は深く切れ込んだ相模川の谷、その先にダムの堰堤が見える。

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 前方に人家の屋根が見えてきて小原の宿に入る。宿場の本陣の建物が残されているが、今日は閉門のようだ。以前ここを訪れた時、小さくて可愛らしいお婆さんが庭の掃除などしていて、本陣のことを事細かに教えてくれたっけ。彼女は今も健在だろうか。

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 宿場らしい古式な建物が残っている。こういう建物を見ると、なぜだろうか、ほっとする。今風新建材の家は面白くないが、格子戸と白壁の家などは嬉しい。といっても、自分が住む家は新建材のチャラチャラだけれど。

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 いったん家並みが途切れてから相模湖駅がある街並みに出た。左へ下っていくと相模湖。公園のあたりに近所の家族連れ、お土産やあたりに東南アジア系らしき外国人。それぞれが早春の湖を楽しんでいる。

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 人はどういうわけか水辺に集まるらしい。まさか水たまりをじっと眺める人はいないだろうが、川、湖、海、わざわざやってきて、黙って見つめていたりする。場合によっちゃあ、スワンボートなどに乗って真ん中まで行ったりもする。

 ボートが楽しいのではなく、水に惹かれるらしい。水は生命に不可欠だからだ、などと言われてもそんな意識は何処にもない。それは無意識のなせることなのだろうか?無意識が人を突き動かしているならば、人とは、わけが分からない存在だなあ。

 

 

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 湖面が見えるベンチに座って、いかにも春らしい陽を浴びてひとしきりぼう~~っとする。しかし30分もぼおう~~としていたら飽きた。時刻はまだ1時半、だけどすることがない。次の宿場まで歩こうかと思ったが、少し膝の具合がおかしいし。

 この膝は、下り道になると痛みを覚える。何年か前、尾瀬ヶ原に降りる道をドカドカ下ったのが効いたらしい。いつでも痛みが生じるわけでもなく、予測がつかない。仕方がない、だましだまし付き合うしか手がないようだ。

 

 

 時間が余っているので、湖の縁に続く道を歩いてみる。岸辺に沿って緩やかに登り、そうして国道20号に突当たった。駅に向かう。14:43高尾行までまだ時間があるので、駅前をぶらり。居酒屋があってちょっと引かれるがコロナだものなあ。

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 3時半ごろ帰宅。全部で約13㎞。

 立春過ぎて、文字通り春のような一日。

 時間的にもゆる~~い散歩。

 

 

 

裏高尾、早春(甲州街道・高尾駅~小仏バス停)

 

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こっそり電車に乗って、高尾駅で「したっ!」と下車。 

 

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 小仏峠に至る裏高尾の道は旧甲州街道であり、丘陵の谷に挟まれた細い道だから、嘘のようにのんびりしていてる。梅の隠れた名所でもあるらしいが、この時期では少し早いかもしれないなあ。ともあれ今日は裏高尾をぶらぶらしたい。

 

 国道20号線甲州街道)は駅前を東西に貫いているが、そこを避けて住宅の裏道を歩く。駅へ利便だから歩いている人がちらほら。曇り予報だったが、カラリと晴れあがって「~所により晴れ間もあるでしょう」どころの騒ぎじゃない。雲が見当たらない。

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  ところで、カメラに電池を入れるのを忘れた。うんともすんとも言わないカメラを、ご丁寧に背負ってきたバカ。仕方がないので今日はスマートフォン。帰宅してから見たけど、どっちでもあまり変わらない。腕が悪のだからどっちもどっち。

 

 

  少し歩くと「両国橋」になる。国道20号の上を中央線が交差する。橋の下の南浅川の流れがいきなり深山幽谷の如し。この渓谷みたいな光景の脇に昔旅館があって、そこで中里介山が小説を書いたのだ、という。その建物は今も残っている。

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  旧甲州街道は中央線と絡み合いながらこの橋からほぼ西へ、国道20号高尾登山口方面の南へと行き違う。旧甲州街道に入って間もなく、駒木野庭園がある。昭和初期の医院兼住宅。懐かしい昔風の医院の建物と、広い庭に池泉。

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  誰もいない庭のベンチで燦々たる陽を浴びながら休憩。池の端の梅がほころびかけている。やはり裏高尾の梅はまだ少し早いようだ。庭を管理するおじさんがきりっとした作業着姿で、こんにちわと挨拶した。

 

 

 そこからほどなく小仏関跡。広場でおばさんがラジオ体操をしている。鶯の声でも聞こえてきそうなのどかな風景。紅梅、白梅の二本がほのかに咲き始めている。もう少しするとこれへサンシュユの黄色が加わって華やかになる。

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 道はだんだん細くなる。けれど車の往来がほとんどないから長閑なものだ。道端の道祖神をゆっくり眺め、周りの丘陵を仰ぐ。遠くの空にに圏央道インターチェンジの桁が浮かんでいる。

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 江戸時代から街道の休憩所だったという建物がある(建て替えはされたようだ)。蛇滝の水ごりの人たちも立ち寄ったという。軒下に各地の「講」札が残されている。読んでみようと思ったが、文字が薄れていてとても手に負えない。降参。

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 この建物の向かい側に、戦争末期、列車が銃撃され、その慰霊碑がある。畑の中を少し歩くと線路わきに慰霊碑。銃撃されたのは終戦の年の8月5日、トンネルに差し掛かった時に艦載機が襲撃した。終戦があと10日早ければ、失われずに済んだ60名余の命。広島、長崎、その他その他、どれほどの命が失われずに済んだだろうか。たった10日!

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  さて、摺差の峰尾豆腐店。豆腐が旨いので近在から車で買いに来る。おからドーナツはなかでも有名。陽だまりのような駐車場の石造りのテーブルで昼食。買ったのは軽いもので、納豆とおからドーナツ。 コンビニおにぎりとドーナツをはむはむ。

 ドーナツはほんのりした甘さでよろし。車が3台買いに来た。うち一人は、大きなレジ袋3個にいっぱい詰め込んで帰っていった。若いカップルが立ち寄り、ドーナツを齧りながら立ち去った。後ろ側で沢水がさらさらと流れている。

 不肖、思うに、なんでも手抜きをせずまっとうに作れば旨いのじゃなかろか。効率という名のもとに最大限手抜きをした量産もの、これはなんだって旨かろうはずがない。スーパーに並んでいる不味いものを、旨いと騙されて食っている自分が哀れだ。

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 道はますます細くなるが、長閑さは増してくる。道幅いっぱいにゆるゆる走るバス、淡く咲いた梅の向こうの古民家風。時間がゆっくりと過ぎていくように思える。午後のバス空っぽで行く梅薫る、ってか。

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  奥の方へ行くと釣り堀がある。平日だから誰もいないと思ったが、居る。どこにでも太公望はいるものだなあ。コロナでどこへも行けないのか、「そんなの関係ねえ!」で常連さんなのか。見ているうちに一人フライで釣り上げた。

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  のんびり歩いてい入るうちにバス折り返し所に到着。ハイカーらしきお婆さんが一人、「13時40分発、あと40分もあるよ」。ならばこの先のお寺まで足を延ばそうか。陽が陰って、うそ寒いような道を登る。裏高尾のどん尻のお寺、この先は家がなく峠道となる。 

 

 境内に古い青面金剛像、脇を見ると宝永3年(1774)の紀年、相当古い。日が当たるベンチで休憩。向こうのお墓の陽だまりでおばあさんが二人おしゃべり中。鳥の声もなく、風の音もなく、辺り一帯がし~~んとしている。 

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 お寺の境内で午後の温かい陽を受けている。古い石像があって、向こうにお婆さんが二人いて、山があって、空が青い。という景色が見えている。しかし見えているこの景色はほんとに存在しているのだろうか・・・と思う。

 見えているのは、わが目と脳みそがこの景色、この世界を作り出しているのであって、それが実際に存在しているかどうかは誰も知らない。この世界を目と脳みそが勝手に作りだすなら、「色即是空」(物質は空、即ち無い!)は、ほんとのことだろうか。

 それにしても、この場に何人か人がいれば、皆だいたい同じ景色を見ている。ということはこの景色、この世界は厳として存在しているのじゃあるまいか。いやいやそうじゃない。人間はみな、同じように眼前の景色、世界が見えるようにできているのじゃ。だからこの景色、世界は人間が目と脳で作った架空のものじゃ。存在しない!

 

 

 お寺に来て、こんなしょうもないことを考える。そろそろバスが来る時間じゃないか。バス折り返し所に戻ってみると、小仏峠方面からちらほらとハイカーが下りてきた。みな中高年の爺と婆、元気だよなあ。

 80歳ぐらいに見えるご夫婦、足元が土埃で白くなっている。高尾からの道は砂埃かな? 水道の蛇口で奥様の分を含めてストックの汚れを丁寧に洗うご主人。奥様は小柄で細く、俯いているので顔は見えない、が、なんだか知らないがほのぼのとする。

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  バスで高尾駅に戻り、高尾駅から南浅川の土手を歩いた。

 八王子市役所のあたりまで歩いて、疲れたので西八王子駅へ。

 またこっそり電車に乗って4時ごろ帰宅。約16㎞。

 裏高尾の春はまだ。

 

 

 

 

春の兆し

 

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 いつまでも頭上に黒い雲が覆いかぶさっていて、大いに鬱陶しい。

 政府の、遅きに失しかつ不徹底なる対策が、この憂愁の元凶ならんや。こんな訳の分からんコロナなるもので、空しくなってたまるものか、わが身は自分で守れ! 故に当面の心得二つ。コロナに罹るな! 惑わされるな自分で判断せよ! と意気込む。 

 

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 意気込んだついでに、人が少ないであろう土手道を散歩。時として川べりに立って、ぼう~っと流れを見る。流れるとも見えぬ川面を風が渡る。冬枯れの河川敷にススキが揺れている。空にトンビがゆったりと舞っている。

 

 

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 わが愁いどこ吹く風か、あっけらかんと空が青い。河川敷の一角に伸びた萱がせせら笑う。おみぁさん方は哀れだのう、目にも見えぬ塵くずのような生き物に恐れおののき、大恐慌。わがもの顔で驕ってみても、たかがそんな体たらく。イ~ヒヒヒ。

 

 

 土手道では、散歩する人、走る人、自転車、時たま行き会うけれど、街の中とは比べるべくもなく少ない。だからマスクをしないで人に行き会う時はなるべく距離を取る。しかし大概の人は散歩でもマスクをしている。なんだか肩身が狭いゾ。

 河川敷に作られた小公園を通過する。芝生の広場で親子が凧揚げをしている。風が弱いから難しい。子供の時、豆粒ほども小さく高々と青空に上がっていた凧を見て感動した。しかし自分であんなに高く上げたことは一度もない。そんなことを思いだした。

 

 

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  6,7㎞歩いた公園で昼飯。芝生の土手に座って裸足になる。陽はぽかぽかと暖かい。向こうに小さな姉妹とお母さんが遊んでいる。可愛いなと思うけれど近寄ってはいけない。なにごとであれ、とにかく年寄りは遠くから眺めているに限る。

 世の中の出来事もただ遠くから眺める。あとのことは若い人にお願いして、自分の面倒でも見ていればいい。それだって十分ではないが、これは仕方がない。さて、昼飯も食ったし、一服も済んだ。風が出てきたから帰るとしよう。

 

 

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 帰り道はハケの下道を行くことにした。そこで見つけた春の先駆け。梅が満開。葉を落とした木々の中で、そこだけぱっと明るい。こんなに早く咲くんだったかなあ。毎年花は咲くのだけれど、ただ気が浮かれているばかりで、咲く時期の記憶がない。

 

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 昔見た一本の梅を思い出した。早咲きの梅なのか、雪の中で紅梅が、凛として咲いていた。まだ早すぎるだろうになぁ、これから寒いのになあ、と思いながらその孤高の美しさに、だいぶ長い間見とれていたような気がする。

 

 

 恐ろしいほどの風が吹いてきた。道端の枯葉がすごい勢いで向こうへ飛び去って行く。前線が通過していくのだろうか? さあ、寒さはこれからだゾ、と言っているように帽子を飛ばした。足が急ぐ。

 

 

 

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 帰宅は3時半ごろ、風は収まっていた。

 歩いた距離は13㎞ぐらい。ちょうどいい。

 春はもう、ついその先まで来ているらしい。