doniti 日誌

( おもしろき こともある世を おもしろく)

花の江戸すもう北斎花火かな

 「江戸文化を楽しむ会」というのがあったので参加した。

 とは言え、いつもの「歩く会」の連中がごっそり参加しているので気楽。

 

 

 

 今回は両国駅を中心にして、このあたりをちょろちょろ歩き、それで江戸文化の間尺に合わせをするつもりらしい。それだけで間尺に合うのか、という気もするが、どうも合うらしい。休日だから街中はがらんどうの人影まばら、のんびりゆるゆる這うように歩く。

 

 

 まずは回向院へ。江戸相撲発祥の地だという。説明によれば、すもうの原型は神代の昔からあり、しかし神様のすもうではなく、人間のそれは垂仁天皇の御代、野見宿祢当麻蹴速の勝負だったとの伝説。後、武家相撲として鎌倉時代、頼朝が大いに奨励し、江戸期になると興行化して勧進相撲となって民衆に広まった由。

 この境内で年2回のすもう興業が始まったのは、1833天保4)年から。江戸、明治とこの場所で行われ、そして1909(明治42)年ここに国技館竣工、天候にかかわらず開催されるようになり、大いに賑わったらしい。

 

 

 境内を歩いてみれば様々な慰霊碑やら無縁塚やらがわらわらと存在し、生きとし生けるものを回向する寺であるらしい。案内板に言う。明暦の大火による身元不明、引取手なしの遺体を、ここに無縁塚を築き、念仏堂を建立して弔ったのが始まり、と。

 「諸宗山無縁寺回向院」と名付け、関東大震災東京大空襲など天災、人災の被災者は言うに及ばず遊女、刑死者、水子、諸動物まであらゆる生命を埋葬供養す、という。卒塔婆の束があり不思議に思ったが、当節、ペットの為のものであるらしい。

 

 

 それからどこやらをぐるっと回って「野見宿祢神社」へ行った。小さな社で、不思議なことに通りに背を向けて建っている。古代のすもう取、宿祢ちゃんがこんなところにいるとは思いもしなかった。探せばあるものだなあ。

 正面奥には歴代横綱の名を刻んだ石碑やら、歴代年寄りのそれやらが麗々しく建っている。ネットによれば、全国にいくつか同様の神社があるそうだ。またこの場所で新横綱の奉納土俵入りが行われる、ということも知らなかった。

 

 

 ついでのこと、近くの公園に行くと、ここが勝海舟の生誕地。巨大なパネルが設置され、これを読始めたら随分読みでがある。いい加減に流し読みしていたら後ろで「勝海舟は嫌いだよ、ごまかしが多い」という声が聞こえた。ふ~~~ん。

 そういう人もいるのだなあ、と初めて気づいた。江戸城無血開城し戦火からこの巨大都市を守った偉人、という刷り込みに、なんの疑問も感じず、ただぼんやりとしていたのだが、この声の主のように、よくよく考える人もいる。

 

 

 吉良上野介の屋敷跡もすぐ隣だ、ということで、ついでの、その又ついでに行ってみた。なまこ壁に囲まれた小さな区画に、上野介の木造彫刻や小さな祠、そしてなんと、首洗い井戸まであったにはいささか驚いた。上野介は人気非ざるか?

 ところで、最近は年末恒例、忠臣蔵は放送されているのだろうか。だいぶ以前、3,40年前ごろは、何はなくても忠臣蔵だったような気がする。紅白やレコード大賞は滅んでも忠臣蔵水戸黄門は必要ではないのか? それが日本人の心象なりや否や。



 どこをどう歩いたか定かではないが、「桐屋田中」という小さなお店に入った。桐の博物館だそうな。そうだな、桐箪笥も江戸文化に紛れないかもしれない、平素近寄るすべがないから興味津々、3坪ぐらいの狭い店に入った。

 さすがに鉄飾りのお化けのような箪笥は一個だけで、他の陳列品は現代的なデザインのも。しかし貧乏人が驚くことに、値段が20~100マンエンもする。たかが箪笥などと言ってはいられない。大いに恐れなければならない。

 

 

 次はいよいよ花火である。「両国花火資料館」という、これも狭まっ苦しいような部屋の中で、ビデオ映像を見、オヤジさんが鞭でパネルを指して大演説するのを聞き、都合、ムリョ1時間余りを要した。

 そもそも花火は、伝来した鉄砲の火薬製造から始まったらしい。1613年家康が駿府で日本人初めての花火見物をし、1659年鍵屋弥兵衛、花火を製造し、両国橋が掛けられ、1733年コレラ施餓鬼で両国川開き(花火)が始まり、幕末は花火行われず、明治になって1868年両国川開き大盛況となり、・・・という次第になるそうだ。

 部屋の隅に200㎏に及ぶどでかい花火とか1尺玉とか、その中間ぐらいの花火玉が置いてあった。江戸時代初期の花火は、大きく空に開くものではなく、ひょろひょろっと上がってひゅ~と落ちるだけのものだったらしい。ともあれ、江戸文化の華らしき花火について大いに勉強になった。世の中には知らぬことが数多い。

 

 

 さて、いかに江戸文化と言え、昼飯は食わねばならぬ。隅田川っぷちをちょっと北上して安田庭園に入る。回遊式大名庭園もこれまた江戸文化そのもの、東屋に憩ってお池を眺めながらゆるゆるとコンビニ握り飯を齧る。

 池を囲む若葉が美しい。躑躅の赤が緑に映える。温かい風が水面にさざ波を立て、す~っと向こうへ動いていく。三々五々、人が歩く。若い女性が多いのはどういうわけだろう、外国人はあまり見かけなかった。どうしたわけか水辺と緑とそよ風はこころを緩くする。

 

 

 昼飯を食ったからには、あと残る江戸文化は北斎だけだが、まずは榛(はんのき)稲荷神社に行く。榛馬場という武術練習場がありし付近に北斎が住んでいた、と言うが90回も引っ越しをした北斎が住んでいた場所は、90か所あるわけで、なんともはや。

 小さな神社の狭い境内に、「北斎旧居跡」なる説明板があり、そこあった絵図が下の写真を引き写したもので、まあ、どちらも茫々、ちっともはっきりしない。(写真の方は単に手振れぼけぼけだという噂がある)



 北斎を知るところは、90%以上、杉浦日名子さんの『さるすべり』に寄るところ大なれど、たしかそこにもこの絵が描いてあった。家の中はごみ溜めの如くして、手のほどこしようがなくなると、ひょいっと引っ越してしまった、というから、まあ、すさまじい。

 しかし北斎は天才だったのだろうなあ、絵の良し悪しを論ずる資格なしとは言えど、かの「神奈川沖浪裏」の大胆豪放な構図など眺めれば、まあ一度目にすれば生涯瞼の裏から離れない、というほどの偉大なる画家。

 

 

 そんなわけで「すみだ北斎美術館」へ行く。館の前庭はなんと児童遊園地、子供たちが無心に遊んでいる。奇体な形の館に入るに、いささか戸惑いと、なにやら不安な期待とが入り混じった気持ちに襲われる。

 入場料は、年金とぼとぼ生活者である年寄り価格で、無慮700円也、いささか如何かと思うけれど、そこはそれ、世界的画家、北斎の美術館なれば、止むを得なければ即ち仕方がないのであろう。

 

 

 企画展は、北斎の有名な絵をデジタル化して、手元のパネルにその解説が現れる、という仕掛けであった。もちろん原画などを展示すれば、大いなる施設と目の飛び出るほどの入場料を要するのだろうから、デジタル画像でやむを得ないと思う。

 これらの原画は、想像するに、どこぞの蔵の奥深くの暗闇に眠っているのであろうが、ひょっとしてひょっとすると、どこかの大金持ちの闇の中かも知れない。日本人画家の絵を、日本人が気軽には見れない仕掛けになっているのであろう。

 しかしデジタル画像でも、それなりに楽しめたのは、運営者の涙ぐましい、皆の衆に安く見せてやろう、の心意気を感じたためか。ただ、順路を追って見る方式なので、後ろがつかえていれば追い立てられる、そこがちと残念。

葛飾北斎の「冨嶽三十六景」は「三十六景」ではなくて「四十六景」という話

                                     (ネットから拝借)

 

 という、江戸文化、両国駅近辺よろよろ歩きの巻、終了。

 じゅうぶん江戸文化の間尺に合って、中身はぎゅう詰め。

 狭いこの中で見どころをよくも探したものと、感心しきり。

 (歩行距離は約9㎞)