doniti 日誌

( おもしろき こともある世を おもしろく)

筍にかえて目黒のさんまかな

 目黒は、「サンマじゃない、筍だ! 」と言う。

 そう言う女子が、今回の「歩く会」の案内人。

 

 

 

 その人が言う。「目黒と言えばサンマですが、昭和初期まで、目黒はタケノコの産地でした。1793(寛政5)山路勝孝が薩摩藩邸より孟宗竹をわけてもらい、戸越村の自分の別荘地で栽培を始めました。それが村の名産となり、後に碑文谷村(ひもんやむら)を中心とした荏原郡一帯に広がっていったのが、目黒のタケノコの始まりです」と。

 

 そうだったのか、それじゃ、どれどれ見てみよう、と大岡山駅に集まったのは、なんと18人、この会にしちゃあ、大群衆というべき大勢。ただし、女子がまた言う。「関東大震災をきっかけに宅地化が進み竹林が減っていきました。現在では「すずめのお宿緑地公園」などにわずかに残るのみです」と。

 さもありなん、いにしえは遠く遥かに想うもの。でもまあ、今に残る目黒のあれこれ、ついぞ巡ったこともなき故に、花の吹雪を踏み越えてゆったり、とぼとぼ参ろうか。

 

 

 まずとっぱじめは、あろうことか駅の目の前「東京工業大学博物館・百年記念館」。ほんの小さな博物館なれど、今思っても印象深い。大学の設立は1881(明治14)年蔵前に「東京職工学校」として、その後幾多の名称変更を経て現在の大学へ。

 最初は陶器などの研究だったようで、大きな鉢などを展示。特に印象深かったのは磁石の研究から現在のメモリーのようなものが作成されていて、さらに光ケーブルの研究は日本が世界に先駆けていたという。現在の我々の便利はここから生まれていたらしい。


  

 駅前の「古きよき」商店街を通り抜け、清水窪弁財天に立ち寄る。武蔵野台地の端っこで、清らかな湧水があったという、洗足池の源流。滝のように流れる水は現在では循環装置のなせる業とか。まあ、止むを得ないよな。

 ところで案内女子は目黒生まれ目黒育ち、シャキシャキした性格であるらしい。「あっちの方に私の小学校、こっちが中学、今は当時の俤もないけど、それでも懐かしいわ」・・・ふるきよき時代だったろうか。

 

 

 

 碑文谷八幡宮の境内のベンチで昼めしの予定だったところ、如何なる悪魔の所業なりや、雨。隣接する「スズメのお宿」の古民家の縁側が使えるか、と案内女子が走るも「ダメだよ~ん」とのつれない管理オジサンの言葉。

 止むを得なければ即ち仕方がない、大木の下、神社の軒かげ、とにもかくも濡れない場所を探し、弁当、おにぎりの立ち食い。立ち食いに風情あり、と思えばこれもまた一興、止まない雨はない、案ずるなかれ。

 



 私が晴れ男の霊験をいかんなく発揮したところ、雨あがる。八幡宮に隣接する「雀のお宿」へ入る。かって、広い敷地一杯に竹林あり、良質の筍が取れたそうな。地主のお婆さんは、土地をお国に返したい、ということから現在は目黒区管理の公園。

 筍は見当たらないが、一角に古民家が移築してある。縁側が雨宿りに最適なつくり、なれど頑固そうなボランテアおじさんがふんぞり返っているから、案内女子がにべもなくことわられたのも然りと思う。

                                 (画像:webサイトから拝借)
  

 

 さて、雨上がり薄日もさして春の昼下がり、サレジオ教会に立ち寄る。神社仏閣はある程度馴染みなれど、キリスト教とくれば右も左も雲のなか、礼拝堂で神妙に椅子に座った。祭壇はいやがうえにも荘厳、ステンドグラスの煌めき、アーメン。



 道路脇、清水池公園で小休止。広々と池があって、暇そうなお年寄り(我らもそうだけれど)が絶賛釣りにいそしんでいる。昔は碑文谷村共有の灌漑用溜池であったと。溜池! 田んぼ! あったらしいのだ、この目黒に。

 目黒、世田谷、場合によって杉並、みな昔はお百姓の地、いずれも今は昔、面影もなし。往時茫々、仮借なき無常の時は、何処かへ流れ去って二度と戻らない。などと柄なきことを夢想しつつ一服した。



 それから林試の森公園である。1900(明治33)年の「目黒試験苗圃」から「林業試験場」となり、平成の御代に「都立林試の森公園」と変転、百年の歴史から巨木が今に残る。貴重な公園だよな。

 ここで午後の大休憩。女子は固まってアフタヌーンティーを決め込んでいるらしい。「女の子からの差し入れよ」とむくつけき男どもの方へ菓子が回ってくる。いささかの疲れもあり、甘いものが妙に旨い。

 知らぬうちにずいぶん若葉が芽吹き、緑一色に包まれ、ゆるりと過ごす。こうなると春の季節は怒涛の如くに移り変わっていく。その奔流の中に居て、ふと思い到れば、どこか寂しくもあり、なにやら空しくもり、春愁の時。

 

 

 目黒の目黒たる目黒不動。正式は、うんと勿体ぶった、どうだ参ったか、という泰叡山護国院 龍泉寺という名だそうだ。808(大同3)年開創とあるから、さすがに古い。家光の時代、江戸守護のため目黒、目白、目黄、目赤、目青の五不動を安置したという。ああ、だから護国院という名が含まれているのだナ。

 案内図によれば堂宇がかなり建込んでいて、それだけでもう大賑わいの様子、とてもじゃないが全部は巡れそうもない。まあ、どの寺社でも御利益を期待するところ少ないにつき、主だったところをちょこちょこッとナニしよう。

 

 まずは境内の独鈷の滝で水かけ不動に、ざんぶりとぶっかけてから階段を登った。階段の上に大本堂がどっしり構え、門と同様の丹塗りがひときわ鮮やかに目に飛び込んできた。それにしても、1,200年の長きにわたって人々の信仰を集め続けたことは、これはもう、びっくら驚いてしまう。そこに日本人のなにやらが見えてきそうに思った。

 

 

 本堂の裏手に、大日如来の巨大な銅像がどで~んと構えていて、聞いてみれば宗旨は天台宗とのこと、してみると密教系なのかなあ。仏教でもこういうことになると、キリスト教同様で、なにがなんだか、雲の中。

 

 

 さてさて、終盤となりぬ。目黒不動の裏道をゆくと、青木昆陽の供養塔があった。甘先生の墓」と刻んだ古い石塔、花が添えられお参りの人があるらしい。ところでなんで目黒に甘藷先生の墓が?? で、Wikiさんに聞いてみた。

昆陽は下目黒・大鳥神社の近くに別邸を持ち、その墓は東京都目黒区下目黒3丁目の瀧泉寺目黒不動尊)飛び地境内の目黒不動墓地にある。1943年(昭和18年)5月1日に国の史跡に指定された。墓石は昆陽自ら「甘薯先生墓」と刻んだ寿塔(生前に建てる墓)である



 次が問題である。「目黒寄生虫館」。いやらしき虫の展示館。一行中の一部は「見るに如かず、夕飯喉に通らず」と、近くの大鳥神社で待つことになった。寄生虫何するものぞ、という剛の者(なのか?)約半数が見学。もちろん自分も。

 確かにホルマリンの瓶の中の、極めて奇体な虫どもはあまり美しからぬ。これがもしかすると自分の体の中でうごめいている、と考えれば、あまり楽しからざることではあるが、しかし我らが幼少のみぎりは、ありふれたものであったのだ。ではあっても、おお! 懐かしきパラサイトよ、とは言いにくい。

 

 

 寄生虫を見たので、大鳥神社は極ごく簡単な立ち寄りだけにして、目黒駅に向かう。目黒川の橋から川面を見渡せば、オオッ、なんということだ、桜が我らの到着を待っていてくれたのだ。

 待っていて、満を持していま満開。暮れていく川筋に、飽満なる白い体を惜しげもなく晒して、静かに、しかし凛として、待っていたらしい。今年も様々な場所であなたを見たとはいえ、夕まずめに映えるあなたが一番美しい。

 

 

 てなわけで、あんがい豊富に見どころある目黒。

 筍ももよし、さんまもよしの目黒。

 歩行距離、約9㎞。ではいずれまた。