doniti 日誌

( おもしろき こともある世を おもしろく)

トロッコの俤

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梅雨空だからと言って、部屋の中で食っちゃ寝のぐだぐだをしているといくない。

腹は出るは体にカビが生えるは気分も鬱陶しいは、う~~む・・・よっこらしょ、一発狭山丘陵でも歩いてくっか。で、モノレール北の終点武蔵村山市上北台駅で降車。ここからうだうだ西に歩いて目標は東京都瑞穂町、箱根ヶ崎駅

狭山丘陵は東京都の北西にぽつんと独り取り残された多摩丘陵の削り残し、おそらく太古、どういうわけか多摩川入間川の氾濫がここだけ残して周りを削り取り、孤島のように森と緑が残された・・・らしい。

 

モノレールはこの駅で終わり、線路を支える支柱が空しく空を区切る。じっとりと湿気がまといつき、歩くには面白くないけれど、やむを得なければ即ち仕方がない(百閒ぱくり)。狭山丘陵へ向かって歩き出す。

この地域はモノレール以外に電車の便がないことから、あの猛烈な開発から取り残された。おかげで古い石仏や石碑が多く残されている。それらを見て歩くのもいいが、それだけだと余りに爺むさい。狭山湖を作る際に使われたトロッコの俤でも訪ねてふらふらするべえか。

 

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  道脇に古い石仏が残されている。それも単に残しているというより、むしろ大事にされている気配。狭山丘陵の麓は丘陵からの湧水があるので、中世以前から水田耕作が行われていたらしい。そのころ多摩地域の大部分が役にも立たない茅野が原だったので、人々はこの丘陵の麓に住んでいた。

だから古い石仏があるし猛烈な開発もなかったことから、いまだそれが残され大事にされているのだろうと思う。それを思うと路傍の朽ちかけた石仏と言えど、酔ってむやみに足蹴にし、倒したりしてはいかんゾ。

 

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 真ん中は今まで見たことがない「水天」様。村山貯水池の水没地から移転、と説明板。

 

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大日如来坐像。堂内安置のため保存良好、隙間からパチリ。

 

至ってイケメンの仏さまだっている。これは如意輪観音、涼しげな眼もと、きりっと結んだ形いい口元、しかも石仏では珍しく背が高い(154cm)。ただイケメンの特徴として手が早い、なにしろ6本もある。そして長寿、慶安5年(1652)から生きている。

 

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 さてトロッコ。大正から昭和にかけ東京都の水道拡張のため村山貯水池、山口貯水池(狭山湖)が前後して作られたのだが、玉川上水羽村の堰からそれぞれの貯水池まで導水渠が掘削されて水道管が埋設された。その資材運搬にトロッコが使われた。軌間61ミリ。

ロッコの線路は先に完成した村山貯水池までの水道管の上に敷かれたが、最終的には昭和19年に撤去、現在は自転車道として活用されている。村山貯水池の下からその道をたどってみようと思う。鬱蒼と夏木立が茂る中に伸びる一本の道。

 

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 ごく狭いトンネルが三本(本、でいいのか?)ある。いずれも短いし明りもあるから幽霊は出ないらしい。幽霊どころか中はひんやりして心地よい風が吹抜ける。昔の人が苦労して貯水池を作り、水を引いてくれたから今知らん顔で水を好きなだけ使っている。

 

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  丘陵の麓に禅昌寺がある。ここには「陸軍少年飛行兵学校」生徒戦没者の、大変美しい慰霊塔がある。若干14,5歳の少年たちが、祖国の危機に際し猛訓練を重ねた学校そのものは別な場所にあったらしいが、生き残った者たちが永代の供養を願いこの場所に慰霊碑を建立したという。特攻隊450を含む4500柱の御霊を鎮める。

白く輝くすっきりとした五輪の塔を見ていると清々しい感じさえする。(清々しいなんて寝言を言ったら怒られるかも)。最近よく思うのだけれど、我々の現在の生活はすべて、前の時代に生きていた人々の努力の上に成り立っている。南無~である。

 

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 このお寺には、江戸時代に小平の小川村を開発した小川九郎兵衛の墓もある。表で作業していた住職に聞いて墓へ行ってみた。真ん中の古い宝篋印塔がそのお墓であるらしく思われたが、小平の小川寺にある墓と戒名が違うようでもあり、判然としない。

この人もまた武蔵野にとって忘れてはならない人だと思う。何しろ人の住まない茅野が原の武蔵野の原野に初めて村を作った。以来武蔵野の開発が進み、時代を追って町として発展し、とどのつまりに現在がある。やっぱり南無~。

 

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禅昌寺の脇の小道を丘陵の谷間へ入っていくと、 田んぼ里山が美しく保全されている。谷地地形で谷間の奥から水が湧き出し、その水に頼って田んぼが作られていたらしい。今ではボランテァによる管理だが、かっては何よりも大切なコメを、細々とではあるが作っていた、武蔵野にとっては貴重な場所。古い農家が復元移築されている。

 

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田んぼの脇の小道のベンチに座ってぼんやりしている。向かいの雑木林がさわさわと葉擦れの音を立て、白い裏葉を見せて風が渡っていく。その風は街中のと違ってひんやりとして爽やか、空気が旨いという言葉があるけれど、風が旨い。

いつまで座っていても飽きない。育ち始めた苗も、緑の濃さを増していく木々の葉も、みな清々しく目に映る。ボランテァの人達によってよく手入れされた畔も小さな流れも雑木林もまことに美しい。未来の子供たちはこの風景を美しいと思うのだろうか。

 

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 夕方5時、箱根ヶ崎駅前、モツ煮込み屋さん。恐ろしく陽気な御かみさんがいた。闊達で人の気をそらさない。何か言っては、かははは~とよく笑う。ウイスキーの水割り2杯も空けたころ、こちらも好い心持になって陶然。

話題として、最近ずっと読んでいたブログ、トラックの荷台に居住の小屋を作り、全国を放浪した人の話をする。で、御かみさんも車に寝床を作ってご亭主と全国放浪の旅に出ろよ、今流行っているらしいぜ、とウイスキー三杯目にはいささか酔った。いいわねえ、やるんだったら亭主は置き去り、一人で行くわ! かはははは~。 

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本日の歩行距離は15kmぐらい。

途中でカメラの電池がパ~(スイッチ切り忘れ)

後半はスマートフォンカメラ、だが結構写る。

雲の向こうに夕日が沈む。(酔っているのか斜めだね!  )

 

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越後信州駆巡ー帰るー

 

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 12時ころ、糸魚川市役所をゆるりと出発、これより千国街道(R148)を南下する。

 R148に入るとまず最初は姫川を中にして左右遠く青葉若葉の山並みが続き、とても開放的な気分になる。が、やがて少しづつ左右の山並みが近づいてきてぴたりと挟まれ、姫川が渓谷をなし 、国道R148は川に寄り添って曲がりくねる。

そして曲がりくねったままスノーシェッドに突入、出たなと思ったら今度は長い長いスノーシェッド、引き続きトンネル、またたく間にまた スノーシェッド、トンネル、トンネル、スノーシェッド・・・延々、延々と続く。

 

 

これじゃあ千国街道を眺めてみたいどころの騒ぎじゃない。 スノーシェッドとトンネルの壁に激突しないようハンドルを切り続るのがやっとのこと。どこまでもそれが続いた。たまにそれが途切れた場所に「フォッサマグナ・パーク⇒」の看板を見かけたものの立ち寄るこころの余裕はなかった。

帰宅後のことだが、これは由々しきものを見損なったと思った。こんなものが見られる場所はそんじょそこらに転がっているものではない。何故そんなに先ばかり急ぐのか! もちっとゆるゆるとした心がなぜ持てんのか! バカ者メ。

 

 

これも帰宅して調べてみたのだが、古の千国街道(塩街道)がよく保存され残っているらしい。ネット検索ではこの R148よりもだいぶ山側に、延々として糸魚川から松本まで続いているという。画像を見ればぜひとも歩いてみたくなる古街道だった。

こういうことも調べずに、ただただすっ飛んで走ることに何の意味があろう。どうせ何もしない暇人なんだから、先を急ぐ必要は何もない。それなのに、ただわあわあ言って飛び歩く自分は本当のバカだと思うが、そのときはそうは考えなかったのだ。

 

 

スノーシェッドとトンネルが切れた場所の向こうに、山肌が無残に崩れた大きな山を見た。樹木の生えた地面が、皮膚が剥がれたように何か所もずり落ちていて、茶褐色の地肌がむき出しになっている。スノーシェッドとトンネルばかり潜ってにいるから見えないが、このほかにもいくつもあるのだろうな、と思う。

崩れた土砂が姫川の流れを遮って大洪水を起こした個所もあるらしい。そういう荒々しい千国街道の深い谷を目にするには、車ではなく大糸線に乗るのがいいのかもしれない。宮脇俊三さんの本にそれが触れられている。

 

 

少し開けた場所に、道の駅「小谷」があり、嬉しいことに温泉が付属している。これはありがたやと温泉に入る。「源泉かけ流し」と表示されているがかけ流しはともあれ、湯は薄い茶色を帯びて本物の温泉であるようだった。

しかし旅にしあれば草枕、のんびりと湯の中でうたた寝をする余裕はない。そそくさと汗を流し、せかせかと内湯につかり、そわそわと露天風呂入り、せわしなくあがってさっぱりとした。 

 

 

        (画像は道の駅hpから。何しろ走ってばかりで写真がない)

 

 

ここはまだ新潟県だとばかり思っていたが、あとで、長野県であることを知った。千国街道のうち新潟県はほんの少しなんだと改めて思わされた。ついでながら、ここの「小谷」が信長に滅ぼされた浅井長政小谷城の地だとばかり思っていた。それを言うとある人の言うじょう、「年寄りの思い込みってホントに怖いわねえ! 」

 

 

湯に入ってさっぱりして少しばかり落ち着いて、走り始めると長い長いトンネルに入った。ようやく抜け出て小さな集落が現れては後方に飛び去って行くのを眺め、そうして目の前がパ~~っと開けてきた。

正面に残雪が輝く高い山が屏風のように立ちはだかり、手前の低い山々には新緑が初々しく萌えたち、その美しさに思わず声を上げ目を見張った。白馬に出たらしいと分かった。あまりの美しさに路肩に車を止め、一枚だけ写真を撮った。

 

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出来ればこの素晴らしい光景をパノラマで写しておきたいと思ったが、先へ進んでもちょうどよいアングルが見当たらない。ろくに生えていない後ろ髪を引っ張られる気持ちで、振返りふりかえりしつつ通過してしまった。

帰宅して酒を飲んでいた時、なぜこの時ここにとどまって白馬の村中を歩かなかったのか! と非常に悔しい思いが湧いてきた。理由もなく急いだばかりに「フォッサマグナ・パーク」と同じように過ぎて帰らぬ光景を見落としてしまった。ナミダがポロリ。

 

 

さて、それはともかく、これから松本⇒甲州街道⇒自宅では、陽が暮れるどころではない、へたすると朝になるかもしれない。そこで白馬⇒信州新町⇒上田⇒佐久⇒野辺山⇒韮崎⇒甲州街道と、ひたすら山越え山越えのルートをとることとし、そのルート上の道の駅を伝い走るべく機械に命じしめる。

白馬から東に連なる緑の山に入り、途中からやおら脇の細道をぐんぐん登って川沿迄下って「道の駅、信州新町」、「挽きたて打ちたて茹でたて」と看板が出ている。前途三千里の思い胸にふさがりて、ここで腹ごしらえをしようと思う。 

 

 

               (画像は同所hpより。食ったのもこれと同じ)

 土産物販売所の脇に「そば信」という店があり、看板通り蕎麦を切っている人があり茹でている人があり、何よりざる蕎麦500円、天ぷらがついても850円と安い。ざる蕎麦来る。山もり。少しぽきぽきする感触だが結構旨い。越後はつるつる喉越し、信州はぽきぽき噛応え、と見つけたり。

 

 

国道19号を善光寺平へと下るが、なるべく善行寺方面に背を向け狭い回廊を上田方面に進路をとる。ああ、右肩の先あたりに姥捨ての景観があるのだなあ、と感じる。再び見て見たい気もするが、まあ、止めておこう。

バイパスで上田市街地を回避し、「北国街道海野宿」を再訪しようとしたがこれも止した。何しろばかナビは自宅帰着が10時ころになると嘘ぶいている。こうなれば一度見たところは立ち寄らないことにしよう。

 

 

そして小諸市に入り、右へ折れて一気に佐久平に駆け下り勢い余ってたちまち野辺山まで駆け上り、一憩してから清里を通過して韮崎へと転げ落ち、20号線に入って甲府バイパスの渋滞でまたかと思い(このバイパスはいつでも渋滞する欠陥道路)、それでも抜け出て大月相模湖無事通過、8時半ごろ帰着した。

 

 

越後信州駆け巡り、一泊二日の距離数約730㎞。

酒を飲みつつ思い起こして大反省。

先へ先へとやたら急ぐべからず、気を落ち着けるべし。

そわそわせかせかの性格治すべし。

次回は、ゆったり走ってどこでも止まってゆるゆる歩くべし。

 

さて、次どこへ行こう。

 

 

 

越後信州駆巡ー糸魚川までー

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忘日、良寛の里、道の駅「天領出雲崎時代館」を8時過ぎ出発、海側の道を西へ走る。

とりあえず目指すは糸魚川、なぜと言えば千国街道(R148)の谷筋を見てみたい。ただそれだけのために延々西走、しかしながら右窓に広がる日本海は青くたおやかに輝き初夏の風になぶられながら走るのは得も言われぬ心地なり。

左窓は緑輝く山が道路直ぐ近くに迫り、それが少し開けたところには、わずかばかりの民家が固まってうらうらと春の日を浴び眠っている。そんな民家が海岸線に沿ってぽつんぽつんと現れては消え、まことに長閑で気分がいい。

 

 

柏崎市に入った。今朝は同じ道を戻ってくるのでは、と通懸念したが朝は山側、いまは海側、どちらもまるで景色が異なり、両方見られて得した気分になった。すると行く手がぐぐっと曲がって内陸側に入るが、しばらく走ってまた海岸線に出た。

どうやら原発の敷地を回避したらしい。その敷地は広大で深々とした森に囲まれていて、車窓からは建物など一切見えない。原発というのはどうやら途方もない広さの敷地が必要なものらしい。少なからずおっ魂消た。

原発を過ぎ海側に美しい松林が続き、やがて柏崎港に差し掛かる手前でカーナビゲーションが内陸側へ入れと指示してきた。そして国道8号線に合流した。この国道ははるか遠き日、若気の至りで石川県の小松までバイクで走ったことがある。のだが、その面影はどこにも残っていないようだった。

 

 

市街地を出ると8号線は海岸に寄っていき4車線から2車線となったが、ところどころからまた海が見える。青い海が広がると心も伸びやかに広がる。やがて上越市に入りまた海から少し遠ざかったが、大した渋滞もなく市街地を通り抜けた。

今度は海岸線の絶壁を走る。樹木が途切れたところから時たま見える、紺碧に光る日本海が美しい。前方をトラックが列をなして走り、山際のほんのわずかな平地に民家が数軒固まっている。いかにも寂しげな集落の佇まいがなぜか懐かしく思われる。

う~む、そうだ、若かりしあの日々、バイクから確かにこんな風景を見たんだ、と思い出が蘇ってきた。そのとき夕暮れの迫る国道を一人ぽつねんと走る自分を侘しく思ったのか、目に映る家々は潮風にさらされて白茶け、いかにも貧しげだった。今は当時と違い立派な建物に変わってはいるが、海岸線に細々と数軒寄りそう佇まいは変わらない。

 

 

上越市とは何ぞなもし、と後で糸魚川のコンビニで聞いたところ、直江津と高田となんだかが合併したのだ、と教えてくれ、そのバイクの旅の一日、直江津で泊まったことを思い出した。淋しい漁港に夕日が沈んでいくのを眺めたような気がする。

あの時の旅も今回と全く同じ無計画、無思慮、無謀なものだった。行く先未決定、泊地未決定、宿未決定、走るところ未決定、簡単な地図一枚を手に適当に走って夕暮れ、駅で宿を紹介してもらって、なに構わずそこに泊り夜の街にふらつき出でて一杯飲んだ。そんなことを思い出せば、歳を食った今もちっとも変わってないなあ!

 

 

 

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                        (同市hpより)

その糸魚川市役所に11時頃到着し、スマートフォンの案内でそば屋を探し、ようよう行ってみたら、おばさんが「すみませんね~、まだなんですよー」と。だけどもう昼の時間なんだけどなあ~。仕方なく○○食堂に行ったら「まだやってねえ~」と。

糸魚川は小さな町のようだ。だからその土地によるやり方があり、食堂は夕方から始まるのかもしれない。旅人が好き勝手な時に入ってきて昼時に飯を食わせろなんて太ぇ考えかもしれない。もういいや、もう食堂なんか探さない! コンビニで上等、市役所の前の芝生のベンチでそよそよ風に吹かれておにぎりランチ。

 

 

さてこれより千国街道(R148)を南下する。姫川沿いのこの街道の険しさ厳しさは宮脇俊三さんの大糸線沿線本などで想像し、一度この目で見たいと思っていた。何しろフォッサマグナの西縁、糸魚川静岡構造線が通っていて、崖崩れ山崩れ、おまけに姫川の氾濫が加わって災害頻発、多くの死者がでてなんでもエライところらしい。

 

ヒトはどんなところにでも住んでしまう。

そして悲しい涙を流しつつ、なお住み続ける。

ヒトは本来不撓不屈なのかもしれない。