doniti 日誌

( おもしろき こともある世を おもしろく)

木蓮に冷たき風や隅田川

 今月の「歩く会」は隅田川の橋巡り。とは言え、またしても風がどっと来る。

 

 

 

 集合は築地本願寺。最寄りは地下鉄「築地駅」だけれど、おら、そったらどこ知らね、なので下車してきょろきょろ本願寺の案内板を探した。無事見付けたので本願寺の正面にたどり着けた。が、駅の中で迷って地下に閉じ込められた人もいたらしい。

 

 大地震後の1934年に再建された築地本願寺は、お寺の概念をぶっ飛ばすほどの形である。これはアジアの古代仏教建築を模した外観だそうだ。これがまあ、日本のお寺か、と思うが、西洋人をはじめとして外国人がぞろぞろたむろしている。今回初めて中を覗いてみた。椅子が並んでいるほかはあまり日本古来のお寺と変わりがなかった。

 冷たい風が吹いてきて思わずぶるっとするほど寒い。これはもう先日の本郷と同じ轍を踏んだ。しかし天気は申し分なくからりと晴れあがって気分は悪くない。境内に一本だけ咲いていた河津桜が唯一の温かみ、写真を撮る外国人が群れていた。

 

 さあ、と出発して場外市場の脇を通りると、中の細い道に外国人がこぼれ落ちそうなほど詰まっていた。その昔、市場の関係者だけが利用していたころは、「安くて旨い」だったらしいけれど、一般人がわんさか押しかけるようになって、ややぶったくりの傾向無きにしもあらず、と言われているらしい。南無さん。

 

 勝鬨橋のたもとの資料館に入った。狭い室内に、橋が作られた当時の配電盤やモーターがぎゅっと押し込まれている。真ん中の開閉部は、橋げたの付け根の歯車をモーターの歯車とかみ合わせて動かしていたらしい。そのモーターは巨大、古色蒼然。

 橋を渡る。真ん中の開閉する橋げたの、その合わせ目はギザギザ模様の鉄が噛み合うようになっているが、3㎝ほどの隙間が空いていて、そこを車が通ると橋が大いに揺れる。揺れて飛び上がるようだ。飛び上がって風がどっと来ると川面にぽちゃん、しそうなほど剣呑ではあるが、勝鬨橋は渡ってこそ価値あり!

 

 風が弩どっと吹きすさぶ勝鬨橋を渡って、対岸の月島へ上陸。十辺舎一九(1765~1832)の墓にいく。墓石の裏側には辞世として「此の世をばどりゃお暇に線香の煙とともにはい左様なら」とあるそうだが、残念見落とした。

 『東海道中膝栗毛』は面白そうなので一度読んでみたいと思う。しかし墓石も変わっているし、辞世もふざけているし、死んだ後も戯作者として振舞わねばならなかったのかどうか。なんまんだぶ、。

 

 「月島の砲台跡」だとか「月島の渡し跡」だとか「波除神社の力石」だとか、いろいろ巡ったけれど、今はそれこそ跡形もなかったり、ビルの谷間に落ち込んでいたり、江戸、明治を偲ぶのは難しい。

 目を上げれば、煌びやかとも見えるタワーマンションがぎゅ~んと林立し、ぴかぴか光るガラスが未来都市に来たように思わせる。で、「もんじゃ通り」を突き抜けた時ほっとした気分で、ああ、もんじゃ食いてえ、との声が上がった。

 しかし「もんじゃ」とはなんという奇妙奇天烈な食い物であろうか。泥田を掻きまわして小さなヘラになすり付け、はむっと口に入れる。旨いんだか旨くないんだか、どう考えても解らない。(もんじゃファンにぶっ飛ばされるナ)

 

 いつの間にか佃島へ入ったらしい。現在の「月島」という地名と、江戸時代の「佃島」「石川島」との関係がよく呑み込めない。帰宅後にネットを探ったら、ようやくなんとか理解できたけれど、そもそも佃、石川の両島は墨田河口の砂州みたいなものだったらしい。それもごく小さな。

 

 

 1626寛永3)年ころ、お舟奉行の石川八左衛門が幕府から拝領して築き立てたのが石川島で、家康が摂津の漁民を連れてきて、隣の砂州に1644(正保元)年ころ石垣など築かせ住まわせた、ほんの小さな島が佃であるらしい。

 その後、佃島と石川島の間に砂州ができ、この場所に「人足寄場」が造られた。その人足(無宿者など)を使って常夜灯(六角二層)を築かせ、現在そのモニュメントが隅田川を見下ろしている。その後、佃、石川両島は合体、その下流に広大な月島ができた、とこういうことらしい。ああ、なかなか面倒なんである。

 

 面倒なので、この場所・佃公園で昼飯と相成った。墨田川にもろに面しているから、冷たい風が川上の方からどっと押し寄せる。一同、植え込みの陰に隠れ、哀れ、握り飯などをかじる。咲き始めた山茱萸の黄いろが慰めてくれた。

 

  月島の隅田川上流突端にある「石川島資料館」に立ち寄る。ビルの一角の小さな資料館で、主としてIHI関係の展示。日本近代造船業発祥の地との説明。1853嘉永6)年、水戸藩徳川斉昭が創設した石川島造船所が現在のIHIの母体となった由。

 佃島と石川島の関係が図解してあったが、これを見ても現在の位置関係が理解できず、頭に?マークを?????ぐらい並べて帰宅したのだった。ネットのおかげでまあ、なんとか理解した。ネットは神様です。

 

 更に「戦災を免れた個人住宅」を表から見てふ~~んと言い、風光明媚なため文士、画家たちが訪れたという「海水館」の跡地を見てまたふ~~んと言って、相生橋を渡った。渡った先に東京海洋大学がある。

 海洋大学の隅田川縁に「明治丸」が土の上に置いてある。明治7年の竣工の英国製鉄船(現代のような鋼船ではない)で、小笠原にいち早く乗り込んで領土確定したり、貴顕高官を運んだり、十分すぎるほど活躍した船なのだそうだ。

 美しく化粧直しされて陸に浮かぶ帆船は、海の貴婦人とも言うべき優美な姿を見せている。元来船というものは、そのたおやかな曲線が美しく、ゆえに女性として扱うのだろうか。ただ最近の船は相撲取りのようにでかくてごついからなあ。

 

 ここから眺める隅田川は海のように穏やかで胸がすくようである。流れるともなく、しかし流れている。岸辺に林立するタワーマンションには生涯縁なきと言えど、美しく豪華で、中に住まう人々のこの上なき幸福を想像したりする。

 

 さあ、ここからは隅田川の左岸を、いけいけどんどん歩く。風冷たきにもかかわらず岸辺のテラスを走る人、歩く人、佇む人、寝てる人もいた。は~るの、うららあの~、と歌った昔、小さな脳みそに墨堤の爛漫の桜が明滅したものだ。

 

 清洲橋を眺める。重厚な永代橋と対になるよう、繊細で女性的なデザインを意図し、ケルンの大つり橋をモデルにしたと言われる。昭和3年竣工。ふ~む、女性的ねえ? まさか、こじつけじゃあるまいな。

 

 最後に芭蕉さんを表敬訪問。逆光を浴びて黒々と影を帯びているけれど、視線の先は遥か「みちのく」だろうか? 前途遼遠の思いを密かに抱きながら、命を懸けて目指すは白河のもっと向こう。いざや春見つめる先は奥の道。

 

 

 春浅く風は冷たかったけれど、充実した一日。

 おおよそ14㎞の隅田川歩き。

 両国での反省会大盛り上がり。

 

 

 

一葉の井戸枯れはてて二月空

 

 文京区の本郷をぐるっと歩こうと思う。(ひょっとして「歩く会」のコースになるかも)。

 御茶ノ水駅を降りると、冷たい、もの凄い風がびょう! と吹いて きて、ともすれば、手足が極端に短い貧相な体ごと、どこかへすっ飛んでいきそうになった。いやはや、日ごろの行いよろしからず、天はそれを見逃さず、罰を与えたもうた。天網恢恢疎にして漏らさず、だなあ。

 

 聖橋を渡ったところが「湯島聖堂」。江戸時代ここに昌平坂学問所が置かれ、それが明治になって東京大学へとつながる「大学校」が開かれたことから、なんでも学問発祥の地というらしい。まずはそんなところから廻ってみることにした。

 薄暗い樹木の影に古風な門が聳え、奥にお寺の本堂のような建物が鎮座している。今は孔子を祀る廟であって、学問所など影すら存在しないらしい。儒学江戸幕府認可の学問であったらしいので、日本人の血肉の中に少なからぬ残滓があるのだろうけれど、無学の身にはお呼びでない、学問所が無くてがっかり。

 

 神田川に沿って歩き順天堂病院の坂を登り、「東京水道歴史館」へ行く。江戸~東京、400年の水道の歴史を展示している。江戸時代の地下に埋めた木管がごろりと置いてあったり、ところどころに設置した水道桶があったり、おもしろいことは面白そうだが、何しろ今日中に全部回れるのか気にかかり、こころ急く。

 ちなみに東京の近代水道は、淀橋上水場を作り、明治31(1898)年12月1日に神田・日本橋方面に通水したのを始めとして、順次区域を拡大、明治44(1911)年に全面的に完成した、ということらしい。なにしろ急激に人口が増えて、神田川などのちょろちょろでは、どうにもこうにも、だったのだろう。

 

 ここを出て、あろうことか道に迷った。とんでもない方面に、なんの疑いもなくすたすた歩き、神田川にぶっつかって、あれっ、ここはどこ? となった。何しろ建物に入ってぐるぐるッと回れば、たちまち方向を失う、という奇態の音痴である。この先が案ぜられるなあ、もう。

 

 気を取り直して、正規の道に戻り、「文京ふるさと歴史館」をちょろっと覗き、「逍遥/子規の常盤会跡」に無地到着。常盤会は逍遥と子規が相前後して暮らした寄宿舎だという。逍遥が住んだあと、旧松山藩主が買い取り、藩の子弟のための寄宿舎とした。

 子規は明治17年、給費生としてここに住み、大学予備門(後の旧第一高等学校)に入学、漱石と懇意になった。その後大学校を中退、陸羯南の新聞社に勤めながら、俳句・短歌の革新に際立った足跡を残したのだという。カリエスを患い、恐ろしいほどの苦痛のなか、恬淡としてその短い35年の生涯を終えた、とのことだから、ひとしおならず惹かれるものがある。

 

 また風がびょうと吹いて炭団坂を転げ落ち、菊坂の「一葉旧居跡」へ行く。人ひとりやっと通り抜けられるほどの路地を入ると、一葉の井戸と称される古井戸のポンプがあった。周りは戦災を免れたとかで、古色蒼然、崩れ落ちそうな小さな家屋が詰まっていた。一葉はここに3年間住んだという。

 父親や兄が前後して亡くなり、しかも借金があったらしく、一葉は17歳の若い身(高校生の年齢! )でこれを引継ぎ͡、戸主とならなければならなかった。針仕事や洗い張りでは貧乏のどん底、伊勢屋という質屋に通う日々だったらしい。小説の才能(とは言え、読んでいないが)の高さを思い、赤貧の果て24歳で亡くなった薄幸の生涯を思えば、胸が痛む。

 

 近くに一葉が通ったと言われる「伊勢屋質店」が残っている。蔵や店、座敷を有する明治の建物だそうで、黒ずみ、古色の塊のような店と、真っ白い蔵がひときわ目立つ。昭和59(1984)年ごろまで営業していたらしいけれど、現在は跡見女子大学の所有となり、内部を日を決めて公開しているという。

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 さて、昼飯の時間である。広い道をぐるりと回って本郷通りに戻り、東大農学部に入る。門の陰に「ハチ公と上野栄三郎博士」の像がある。眺めていると、ハチ公のかわいらしさと博士の優しさが、辺りににじみ出てくるような気がした。そして学食に潜り込んで定食を食す。

 しかし摩訶不思議なことに、周りの女子学生が一人残らず知的な美人に見えてしまう。こんなはずはない、ここが天下の東大だから、脳みそが自動的にそんな風に意識するのだ、とは思うけれど、誰もが皆頭が飛び抜けてよさそうで、それが美しさを醸し出しているのだろうか。いやいや、これは気の迷いだ、たぶん。 

 

 農学部構内の細道を根岸方面へ抜ける。「夏目漱石旧居跡」の看板が建ち、その下に小さな猫がきょとんとした顔でこっちを見ていた。あんだってこんなところへぞろぞろ来るんだ、古い家が残っているでもないのに、モノ好きにもほどがあるよなあ、と吾輩が言っている。

 漱石は英国へ留学した後、文明の波にのまれてノイローゼになりながら、ここで「猫」を書いたという。江戸文化にそっくりくるまれたままの生身が、いきなり西洋文明のただなかに放り込まれたなら、神経が混乱するだろうナ、「猫」を書いたのはその息抜きだったのかナ、と思う。

 



 そこからほど近い「森鴎外記念館」は休館日だった。鴎外はここに亡くなるまで住んでいたという。彼もまた、この時代の大秀才の一人だったのだろう、何しろ11歳という子供ながら東京医学校予科に入学、軍医として最高の軍医総監まで上り詰めながら、後世に残る小説も書いた。

 がしかし、この人の本はほとんど読んでいない。事績があまりにもかけ離れ過ぎていて、人間としての興味がわかないような気がする。それにその作品が、「猫」や「坊ちゃん」のように解り易い代物でもないようだし、ま、学のないものにとっては敬して更に遠ざける、というところだろうか。

 

 さてさて、明治の偉人たちのゆかりの地は尋ね終わった。このあたりでエライ人から離れ、のんびりしなくてはならない。団子坂を下って「根津神社」へ行く。また風がびょう~と吹いてきて縮こまって歩く。寒い。どこまでも神様の罰は付いて回る。神社で厄払いせねばなるまい。

 べんがら色の建物がなんだかほっとする。ここでは偉人も、またそうでない人も何も考えずぼう~~っとしていていいらしい。せっかくだから大いにぼ~~っとした。孔子廟にほとんど人影はなかったが、こちらには外国人を含め、ちらほらと人影が動いている。日本の神様バンザイなのだ!

 

 

 

 根津1丁目の交差点を本郷通りへ抜けるその坂の途中に「弥生土器ゆかりの碑」というのがある。弥生土器の最初の発見地は弥生町である、というのは教えられたような気がするが、それはどこぞなもし、状態が長い間続いていた。今こそ積年の謎と恨みを晴らすときだ。

 木立の下にそれはあった。石碑だけである。説明板によれば、発見地はこのあたり、というだけで特定はできていないそうだ。だから「~ゆかりの地」なのだろう。まあ、この地点だ、と特定できなくても、それでいいような気がする。一葉の旧居跡も「このあたり」であるらしかったしな。

 

 

 本郷通りに出て赤門を入る。このような無学・無教養なものが入っていいのだろうか、いけないような気がしてどきどきする。古びた建物が並ぶ奥に、鬱蒼とした森に囲まれた「三四郎池」はあった。正式名称は加賀藩の庭園「育徳園・心字池」というそうだ。通称はもちろん漱石の小説『三四郎』からきている。

 風が強いので水面を騒がしている。「美祢子」はもちろん、誰も居なくて静かだけれど、深遠なる哲学などは決して頭に浮かぶはずもない。凡夫がこんなところに佇んでも、何ら得るところあらず、ということをしみじみ身に沁みた。上野で焼き鳥屋でも探したほうがなんぼかよいのであるまいか。

 

 

 帰りがけの駄賃に「湯島天神」に立ち寄った。折から境内で猿回しが演技していた。演ずるサルはとぼけた顔をしていた。使う方は高校生ぐらいの少女である。なにやら少し演技した後、喜捨の笊が回ってきて、千円取られた。どういうわけか少女を見て、越後獅子の悲しい物語が頭に浮かんだ結果である。

 

 

 明治初期のあれこれを巡って楽しかったが、さて夕方であるからには帰ろう。

 夕暮れの不忍池を回って、残照を浴びた河津桜が飛び切り美しかった。

 狭い範囲だったから距離は短いと思っていたが、それでも14㎞。

 

 

 

尾根をゆく眼下にゆかし里の梅

 

 

 思いもせぬ暖かい日が続いて、これはもう散歩にしかず。

 多摩丘陵の尾根道などはどうか、あらゆる隙間にまで住宅が入り込んでいる丘陵だが、その天辺の尾根のあたりだけ雑木林の小道が残っていて、そこへ入れば人里離れたような気分になれる。ちょびっとだけ旅の気分。

 

 

 駅を出ると谷戸地形の左右に低い尾根が走っていて緑が見える。住宅の裏側から獣道のような細い道が尾根に続いて、登り道は息が切れるから嫌だが、止むを得なければ仕方がない。うんせ、うんせと尾根まで登った。

 ぎょっとするようなものが目に飛び込んできた。向こうのコナラの立ち木に巨大な蛇が巻き付いて、木を絞め殺している。その目がらんらんと光ったような気がした。蛇はいかん、大小にかかわらずいかん。細い尾根道が向こうへと続いている。

   



 人気のない細道をぽつねんと歩いて行く。こんなことのどこがおもしろいんだ!? と自分でも思う。しかし家に帰れば、また出かけたくなる。ともかく外に出れば体を動かし、目の前の風景が順次変わっていくが、部屋に籠っていてはただ太るだけだ。

 やがて尾根道が尽きて車道の峠道に合流、このあたり人家がぱらぱら出てきた。人家があれば花がある。ヒトというものが何故花を愛ずるようになったのか知らないが、周りが冬枯ればかりだから、なんでもない花が愛おしく見える。  

 

 



 人気のない道を下っていく。このあたりに旧街道の切れっぱしが残っていると聞いたが、グーグルマップで調べた時は土手だったところへ、がっちりとコンクリの擁壁が聳え立っていた。なんじゃこりゃ! 取り付くしまがないじゃないか!

 周りは広い範囲の土が掘り返されていて、開発中の様子、ふと見れば向こうの土手に怪しの階段が目に入った。いかにも取って付けたような、何のためのものか解らない、奇妙な階段、もしかしてあの上が旧街道につながるのか?



 しばらくの間あれこれ考えて、工事中の場所に闖入するなどということは、小学生だってしない、がしかし、旧街道を探るについては、この手しかないのではないか、虎穴に入らずんば虎児を得ず、幸いあたりに人気はない。そっと忍び込んで階段を登った。

 登りつめてみると、案の定そこから土の道が雑木林の向こうへと続いている。これが切れっぱしの入り口なのだろう。大いに気をよくして歩いたが、枯れ木や枯れ草が散乱していて、人が通った形跡がない、ないけれど、るんるん気分である。

       

 

 

 るんるんでしばらく歩いたら、むこう向きの看板に突き当たった。いま歩いてきた道は通行止めだと書いてある。う~む、工事現場には闖入する、通行止の道を平気で歩くは、とんでもない爺いである。

 そこから先へ、まだ切れっぱしの道が続いているらしいので、辿って行った。途中出会ったのは、子犬を連れたおっさんただ一人、もはや廃道になってしまいそうな感じだが、残ってほしい。里道まで降りてきて、切れっぱし探索は終了。

 

 

 下りた場所の片隅に、紅梅、白梅、河津桜の早春三役そろい踏み、おお~~などと声が出る。花が少ない時期だから思わず眺めてしまうが、春たけて花に飽きてしまえば振り向きもしない、薄情者なのであるが・・・

 河津桜は薄いピンクの花がなまめかしい。全国をソメイヨシノが席巻しているけれど、それに替えるならこの桜がいい。だがしかし、全国がまたこればかりになってしまえば、ソメイヨシノの清楚が懐かしくなるかも、身勝手なのであるが・・・

 

 さて、と地図を眺めて思いめぐらしてみる。七国峠、という場所に続く尾根道がある。その道はこの近くの造形大学というところへ出て、そこから続いているらしい。造形大学へ向かう道を歩いてみると、今までと同じような土の道が続いていた。

 その道を、のんのん、ずいずい気分よく歩いて行くと、住宅団地の天辺に出でてしまった、ここはどこ? どこへ行くの? 状態、早く言えば道に迷った。ちょうど庭先におばさんがいたので、造形大学へは? と聞く。

 近道があるのよ、と言って、しかし口で言うのはめんどくさくなったらしく、今来た道を一緒に戻る。歩いて行くなんて私には考えられないわ、と呟いている。そうだよなあ、酔興にもほどがあるよなあ、と肯く。見落としていた分岐まで一緒に来てくれた。

 

 

 七国峠に続く尾根道の入り口をようやく探し当て、やれやれと歩き始める。八王子市と町田市との境の尾根道だと書いた看板があったから、これで間違いない、ほっとした。落葉が重なったふかふかの道が続いている。

 右手の木の間から遠く八王子市街が見える。場所によってはすぐ近くまで住宅地が迫り、甍の波がびっしりと埋め尽くしている。途中なんにんか人と出会ったから、人気の散歩道なのかもしれない。

 

 

 

 低い谷間が貫入して、階段で谷に降り向こうの斜面を又階段で登っている。6年生ぐらいと幼稚園ぐらいの、姉妹らしい二人がこっちに登ってくる。道を開けて待っていると6年生がにっこり微笑んで会釈した。幼稚園が懸命に足を上げて登る。

 階段を下るについては特に問題なく、登るについては大いに問題あり、20段ほどの段差でも息が切れる。毎度のことだからもう嘆かない、登り道はなぜか知らないが、空気が薄いのであろう、困ったことである。

 これ以降は起伏の少ない道を坦々と歩き、峠の標識まで来た。この道は貴重な散歩道でもあるらしく、また保全緑地だそうだからいつの間にか消えてなくなる、ということはないだろう。都市の中では嬉しい場所だ。


 

 中央公園という雑木林の中を下っていく。下りは息が切れないから楽ちん、世のなか、下りばっかりで登りがなければ大いによろしい。公園の麓は「四季の丘」でグランドやテニスコートなどがあり、家族連れが三々五々。

 四季の丘の中にまた河津桜と真っ赤な梅が満開に咲いていた。本日のダメ押しかな? 貴重な花だが、ここも、もうしばらくしたら、花々でむっせけえるようになるに違いない。花であふれかえる風景があたり前のことになるんだなあ、たぶん。




 街の中を駅までのんびりぶらぶら歩いた。

 春はまだ浅いけれど、ウソつかれたように温かい。

 3時半ごろ帰宅して、13㎞、満足した。