doniti 日誌

( おもしろき こともある世を おもしろく)

一葉の井戸枯れはてて二月空

 

 文京区の本郷をぐるっと歩こうと思う。(ひょっとして「歩く会」のコースになるかも)。

 御茶ノ水駅を降りると、冷たい、もの凄い風がびょう! と吹いて きて、ともすれば、手足が極端に短い貧相な体ごと、どこかへすっ飛んでいきそうになった。いやはや、日ごろの行いよろしからず、天はそれを見逃さず、罰を与えたもうた。天網恢恢疎にして漏らさず、だなあ。

 

 聖橋を渡ったところが「湯島聖堂」。江戸時代ここに昌平坂学問所が置かれ、それが明治になって東京大学へとつながる「大学校」が開かれたことから、なんでも学問発祥の地というらしい。まずはそんなところから廻ってみることにした。

 薄暗い樹木の影に古風な門が聳え、奥にお寺の本堂のような建物が鎮座している。今は孔子を祀る廟であって、学問所など影すら存在しないらしい。儒学江戸幕府認可の学問であったらしいので、日本人の血肉の中に少なからぬ残滓があるのだろうけれど、無学の身にはお呼びでない、学問所が無くてがっかり。

 

 神田川に沿って歩き順天堂病院の坂を登り、「東京水道歴史館」へ行く。江戸~東京、400年の水道の歴史を展示している。江戸時代の地下に埋めた木管がごろりと置いてあったり、ところどころに設置した水道桶があったり、おもしろいことは面白そうだが、何しろ今日中に全部回れるのか気にかかり、こころ急く。

 ちなみに東京の近代水道は、淀橋上水場を作り、明治31(1898)年12月1日に神田・日本橋方面に通水したのを始めとして、順次区域を拡大、明治44(1911)年に全面的に完成した、ということらしい。なにしろ急激に人口が増えて、神田川などのちょろちょろでは、どうにもこうにも、だったのだろう。

 

 ここを出て、あろうことか道に迷った。とんでもない方面に、なんの疑いもなくすたすた歩き、神田川にぶっつかって、あれっ、ここはどこ? となった。何しろ建物に入ってぐるぐるッと回れば、たちまち方向を失う、という奇態の音痴である。この先が案ぜられるなあ、もう。

 

 気を取り直して、正規の道に戻り、「文京ふるさと歴史館」をちょろっと覗き、「逍遥/子規の常盤会跡」に無地到着。常盤会は逍遥と子規が相前後して暮らした寄宿舎だという。逍遥が住んだあと、旧松山藩主が買い取り、藩の子弟のための寄宿舎とした。

 子規は明治17年、給費生としてここに住み、大学予備門(後の旧第一高等学校)に入学、漱石と懇意になった。その後大学校を中退、陸羯南の新聞社に勤めながら、俳句・短歌の革新に際立った足跡を残したのだという。カリエスを患い、恐ろしいほどの苦痛のなか、恬淡としてその短い35年の生涯を終えた、とのことだから、ひとしおならず惹かれるものがある。

 

 また風がびょうと吹いて炭団坂を転げ落ち、菊坂の「一葉旧居跡」へ行く。人ひとりやっと通り抜けられるほどの路地を入ると、一葉の井戸と称される古井戸のポンプがあった。周りは戦災を免れたとかで、古色蒼然、崩れ落ちそうな小さな家屋が詰まっていた。一葉はここに3年間住んだという。

 父親や兄が前後して亡くなり、しかも借金があったらしく、一葉は17歳の若い身(高校生の年齢! )でこれを引継ぎ͡、戸主とならなければならなかった。針仕事や洗い張りでは貧乏のどん底、伊勢屋という質屋に通う日々だったらしい。小説の才能(とは言え、読んでいないが)の高さを思い、赤貧の果て24歳で亡くなった薄幸の生涯を思えば、胸が痛む。

 

 近くに一葉が通ったと言われる「伊勢屋質店」が残っている。蔵や店、座敷を有する明治の建物だそうで、黒ずみ、古色の塊のような店と、真っ白い蔵がひときわ目立つ。昭和59(1984)年ごろまで営業していたらしいけれど、現在は跡見女子大学の所有となり、内部を日を決めて公開しているという。

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 さて、昼飯の時間である。広い道をぐるりと回って本郷通りに戻り、東大農学部に入る。門の陰に「ハチ公と上野栄三郎博士」の像がある。眺めていると、ハチ公のかわいらしさと博士の優しさが、辺りににじみ出てくるような気がした。そして学食に潜り込んで定食を食す。

 しかし摩訶不思議なことに、周りの女子学生が一人残らず知的な美人に見えてしまう。こんなはずはない、ここが天下の東大だから、脳みそが自動的にそんな風に意識するのだ、とは思うけれど、誰もが皆頭が飛び抜けてよさそうで、それが美しさを醸し出しているのだろうか。いやいや、これは気の迷いだ、たぶん。 

 

 農学部構内の細道を根岸方面へ抜ける。「夏目漱石旧居跡」の看板が建ち、その下に小さな猫がきょとんとした顔でこっちを見ていた。あんだってこんなところへぞろぞろ来るんだ、古い家が残っているでもないのに、モノ好きにもほどがあるよなあ、と吾輩が言っている。

 漱石は英国へ留学した後、文明の波にのまれてノイローゼになりながら、ここで「猫」を書いたという。江戸文化にそっくりくるまれたままの生身が、いきなり西洋文明のただなかに放り込まれたなら、神経が混乱するだろうナ、「猫」を書いたのはその息抜きだったのかナ、と思う。

 



 そこからほど近い「森鴎外記念館」は休館日だった。鴎外はここに亡くなるまで住んでいたという。彼もまた、この時代の大秀才の一人だったのだろう、何しろ11歳という子供ながら東京医学校予科に入学、軍医として最高の軍医総監まで上り詰めながら、後世に残る小説も書いた。

 がしかし、この人の本はほとんど読んでいない。事績があまりにもかけ離れ過ぎていて、人間としての興味がわかないような気がする。それにその作品が、「猫」や「坊ちゃん」のように解り易い代物でもないようだし、ま、学のないものにとっては敬して更に遠ざける、というところだろうか。

 

 さてさて、明治の偉人たちのゆかりの地は尋ね終わった。このあたりでエライ人から離れ、のんびりしなくてはならない。団子坂を下って「根津神社」へ行く。また風がびょう~と吹いてきて縮こまって歩く。寒い。どこまでも神様の罰は付いて回る。神社で厄払いせねばなるまい。

 べんがら色の建物がなんだかほっとする。ここでは偉人も、またそうでない人も何も考えずぼう~~っとしていていいらしい。せっかくだから大いにぼ~~っとした。孔子廟にほとんど人影はなかったが、こちらには外国人を含め、ちらほらと人影が動いている。日本の神様バンザイなのだ!

 

 

 

 根津1丁目の交差点を本郷通りへ抜けるその坂の途中に「弥生土器ゆかりの碑」というのがある。弥生土器の最初の発見地は弥生町である、というのは教えられたような気がするが、それはどこぞなもし、状態が長い間続いていた。今こそ積年の謎と恨みを晴らすときだ。

 木立の下にそれはあった。石碑だけである。説明板によれば、発見地はこのあたり、というだけで特定はできていないそうだ。だから「~ゆかりの地」なのだろう。まあ、この地点だ、と特定できなくても、それでいいような気がする。一葉の旧居跡も「このあたり」であるらしかったしな。

 

 

 本郷通りに出て赤門を入る。このような無学・無教養なものが入っていいのだろうか、いけないような気がしてどきどきする。古びた建物が並ぶ奥に、鬱蒼とした森に囲まれた「三四郎池」はあった。正式名称は加賀藩の庭園「育徳園・心字池」というそうだ。通称はもちろん漱石の小説『三四郎』からきている。

 風が強いので水面を騒がしている。「美祢子」はもちろん、誰も居なくて静かだけれど、深遠なる哲学などは決して頭に浮かぶはずもない。凡夫がこんなところに佇んでも、何ら得るところあらず、ということをしみじみ身に沁みた。上野で焼き鳥屋でも探したほうがなんぼかよいのであるまいか。

 

 

 帰りがけの駄賃に「湯島天神」に立ち寄った。折から境内で猿回しが演技していた。演ずるサルはとぼけた顔をしていた。使う方は高校生ぐらいの少女である。なにやら少し演技した後、喜捨の笊が回ってきて、千円取られた。どういうわけか少女を見て、越後獅子の悲しい物語が頭に浮かんだ結果である。

 

 

 明治初期のあれこれを巡って楽しかったが、さて夕方であるからには帰ろう。

 夕暮れの不忍池を回って、残照を浴びた河津桜が飛び切り美しかった。

 狭い範囲だったから距離は短いと思っていたが、それでも14㎞。