doniti 日誌

( おもしろき こともある世を おもしろく)

民俗とくらしにつき教えを受けしこと 2

さて、翌日10時、京王線府中駅前、けやき並木集合。

前日に顔見知りだからお互いに少し話をする。こういうとき、男女は歴然として態度が違う。女性は何のわだかまりもなく打ち解けあうが、男どもはまるでダメ、ぶんむくれたように黙り込んでいる。

けやき通りには出店が並んでいた。雑貨やら食べ物やらとりとめなく売っている。はてなんだろう? と思い聞いてみたら、なにやら年1回のイベントであるらしかった。話した人は仙台からはるばる来たのだそうだ。今日は出店の研究ではないから詳しくは聞けない。

 

 

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 いよいよ大国魂神社へ。お祭り研究者説明

律令時代、国司は任国の神社を巡拝の義務あり、しかし平安になって国府の近くに総社を設け巡拝を省略。よってここは祭政一致武蔵国総社であり、六所の宮ともいい、小野、二宮、氷川、秩父、金鎖、杉山の各神社をも祀る。江戸時代500石の社領、明治は官幣小社、現在は氏子でなく奉賛会により維持。

例大祭としての「くらやみ祭」は記録的にも600年以上の歴史があり、祭りの名の起こりは、別名喧嘩祭りともいう通りとにもかくにも猛烈な喧嘩、暴動頻発のため警察介入、神輿渡御を16時からとし、さらに18時からと夜間にずれ、暗闇の祭りとなった故に。

という、なんとも物騒な祭りらしい(ちなみに暗闇祭りを見たことはないが)。江戸前神田祭などと比べれば、祭衣装にしろ神輿の担ぎ方にしろ田舎臭く野暮ったいのだそうだ。「あっちは粋、こっちは野暮」・・・やっぱり多摩だな!

 

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東京の地酒の樽が並んでいるのと、おりしも結婚式の行列が静々と通ったのは面白かった。行列は先頭に白装束烏帽子の男二人が杖をガシャンガシャン鳴らしながら、その後は紅の装束の女性、続いて萌黄の雅楽奏者ぴ~ひょろろ~~と奏しながら3人、巫女さんの後にご両人という案配。

 

 

境内の一角にある巨大な忠魂碑の前でお墓研究者の説明

神道では原則として死者は穢れとして扱わないのですが時代が進んで、かたくなにそれを通すことが不可能となり、戦没者に限って扱うこととなりました。この忠魂碑も先の大戦戦没者のための碑です。そのほか日露戦争のものは”記念碑”であり、この下のものは”軍艦多摩戦没者慰霊碑”であってお墓ではありません。

 

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その後、武蔵国府跡の朱の列柱が並ぶ場所で民俗学諸々研究者の説明があったが、誰もが知ることなので省略して、さあ、昼飯。女性の一団がけやき通りのほうへ行ったので「うまい店を教えて」とか言って混ぜてもらう。

もう一人のおっさんと二人、4人の女性軍団に囲まれ決して恐ろしくはなく、打ち解けた会話も弾んで楽しく食事。今回初めて知り合った仲なれど飯を食うという嬉しい作業も付随して、わいわいがやがや。調子こいて独りワインなどもほんの少し引っ掛けた。一緒だったおっさんは落ち着いた紳士であり一杯傾けて話したら面白そうな人。

 

 

さて午後、大国魂神社の裏側、府中崖線の危うい坂道を下って妙光院とその隣の安養寺というどちらも古いお寺に行く。お墓研究者の説明

ここの二つのお寺は布教のために開山された。ともに平安仏教の宗派(妙光院:真言宗、安養寺:天台宗)で、関東では信者が少なくここをもとにして活動し、それぞれ有力者の庇護があり拡大した。一般に平安仏教の宗派は、もっぱら死者の安寧を願う供養の性格が強かったが、次第に他の宗派と同様葬儀や墓とつながっていく。なので今ではお墓も他の宗派と変わりありません。

妙光院のほうは荒れ寺とも見えるほど古く無住のようだった。しかしそこがまた幽玄の気配が漂い悪くないなと思った。境内にお地蔵さんが2体、ただ一体は立膝ついて頬づえをついている変わったお姿、これなんだろね。

 

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 安養寺のほうは新しい作りだったが、ただ境内が府中競馬場からあふれた車の駐車場になっていて、次々と車が入ってき早々に引き上げざるを得ず。きょうびはお寺さんもなにかと経営が大変らしい。

 

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競馬場の脇を通り抜けてまたケヤキ並木のほうへ向かうのだが、崖線に作られた競馬関係の石碑や記念碑がおもしろい。いわば競馬場の舞台裏のようなものかと思う。一つは大きな馬頭観音像、3面6臂の立派なもので入口扉の向き合ったお馬の顔が可愛らしい。

 

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もう一つは馬霊塔、走るためだけに育成されるサラブレットはただ骨折しただけでこの世と別れを告げねばならない。その生涯を憐れんで慰霊する、とは人間側の勝手すぎる行いなれどそこは人情、かな?

かっての名馬らしき石碑もあったが、その名はだれも知らないと言った。

 

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さて、大國魂神社前に戻り旧甲州街道を西へ、高札馬、御旅所を見、かっての造り酒屋さんを偲び、17○○年創業の今ではホテルになった旧旅籠屋を偲び高安寺へ。民俗学諸々研究者の説明

ここは田原藤太秀郷の居館跡に足利尊氏により、国家安穏を祈願し併せて南北朝戦没者供養のため、全国造ろうとした「安国寺」の一つとして建立された曹洞宗のお寺。境内裏に弁慶の硯井戸があるが、この井戸はおそらく4,5mの深さに掘ってありここが崖線の下だから浅く掘っても水が出る。 

ところで田原藤太秀郷とは 誰ぞなもし?

 

 

さてさて、これでお勉強はお終い。

軽便鉄道の、多摩川から砂利を運んだ「東京砂利鉄道」跡地を歩いて、分倍川原駅にて解散。天気も崩れることなく持ちこたえ、終わり良ければなんとやら、これにてだらだらブログも完。

 

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せっかくなので昼めしを一緒にした6名、

うちそろって駅前で一杯と思ったがコーヒーなどを一杯飲んで

ではまたの機会にとお別れ。

一期一会か?

 

 

民俗とくらしにつき教えを受けしこと 1

忘日、「武蔵国の民族とくらし」について教えてあげるよ、というので参加した。

教えてくれるのは、まあ私どもの半分ほどの年齢の先生方4人、一人は農村社会研究、一人はお祭り芸能研究、さらに一人はお墓研究、そして一人は民俗学諸々、の新進気鋭(だと思う)の研究者、それも4人も! 

 

 

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初日、午前中2時間ほど座学、というより今回のテーマの概要と行動予定のレクチャー、次からつぎへと短時間で説明され、難しい内容ではなかったものの年寄りたちはいささか頭が混乱気味、ま、深く考えないで聞き流す、これ得意技。 

初日午後野外へ。午後1時小平駅集合。そこから金魚の何とかよろしくぞろぞろと熊野宮へ。お祭り研究者の説明…

小平熊野宮は江戸時代に開拓された小川新田の総鎮守、初期開発者小川九郎兵衛の出身地狭山丘陵から遷座。神社裏の一本榎は茅野原の武蔵野の目印だったがそこへこの神社を建立した。新田村の精神的支柱としての役割があった。

更に府中大国魂神社の祭礼「くらやみ祭り」からの影響がみられる。

・神輿渡御に際してササラによる道清め

・お先払い太鼓が大型化していった。

・会員だけが神輿渡御に参加できる。

などこの神社も「くらやみ祭り」大きな影響を受けている。

 

 知らんかった。神社同士、競争もあればマネすることもあるんだなあ。

 

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神社脇の広大な宮司さんの屋敷地に面白いものがあった。お墓研究者の説明…

神道では墓は穢れに通ずるといわれ表立って扱われないが、”神葬祭”形式により葬儀が行われる。このお墓はその形式で作られている。

覗いてみると、宮司家の屋敷内に芝生の広い一角があり、鳥居が立ちその奥に石碑のような碑が数本建っている。部外者には見えにくいしまた表からは入れない。これは初耳、初目、お勉強になりました。

 

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ここには先日の平成お徒隊でも立ち寄ったけれど、とても先生方のような深い内容を説明する能わず、やはり専門研究者は違う! 座学でも農村研究者から武蔵国について説明されたが、

意味内容が異なる3つの”むさし”がある。

1 地学的概念の武蔵野台地

2 歴史的領域の武蔵国

3 文学的イメージの武蔵野

それぞれ意味するところは相違しており、”むさし”の内容は多様である。 

それぞれに概略的説明があったが、こういう発想もシロートにはむりだなあ、と思う。学問というのはこうゆうものだな、たぶん!

 

 

それから「延命寺」に立ち寄り、墓地をぐるっと巡ってお墓研究者から説明

この寺は野中新田の開拓に伴い入村者の墓が必要とされ、開基された。

一般にお寺の成立形態は次のように区別される。 

1 国の支援により建立(武蔵国分寺など) 

2 布教対象者のために建立(鎌倉の諸寺など) 

3 村を開いた寺(小平の円成院など) 

4 新しい村の開拓で必要とされた寺(ここ延命寺など)

一口にお寺と言っても様々な理由を背景にしてできたのだなあ、と改めて知る。そのあと墓地をぐるっと回ってなにやら説明されたのだけれど、墓石の名前ばかり眺めていてちっとも聞いてなかった、すまんこってす!

 

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最後に「小平ふるさと村」に立ち寄ったけれど、ここではボランティアガイドによる小川村開発の説明、これは先日の平成お徒隊でも同じ話を聞いたので省略。そのようにして初日は終了。面白かったではないか!

 

 

明日は丸一日表を歩く。

と言っても府中駅周辺をぐるりと回るらしい。

のんびり、てくてく・・・楽しからずや。

 

 

 

 

暑さの初夏は

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忘日、今日は平成お徒隊の日、10:00 西武線花小金井駅に16名集合。

ここから小平市を東西に貫く青梅街道をたどり、江戸時代に開かれた小川村、その他武蔵野新田をいささかながら偲んでみようという魂胆、だけれどうまくいくかどうか。われ等がお徒隊も年々歳々参加者減少の折から今日は16名と少し回復、ゆえ成功したい。

 

 

青梅街道は新宿から武蔵野台地とそれに続く山地を甲州まで伸びているのだけれど、まずは江戸時代最初期に青梅の石灰を江戸市中に運ぶために開設された。が武蔵野の茅野原であってみれば水もなく、そのため玉川上水の開通を待つようにして小平市に最初の村、小川村が切り開かれていった。

 

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 現在の小平市の町名、小川町、大沼町、鈴木町、廻田町などは当時の村の名前がその地域の町の名として残されていて、当時の村の範囲が現在の市域にほぼ一致する。そしてそのほぼ真ん中を東西に青梅街道が貫いているので、今日は東の端から西の端っこまで歩くことにしている。

まずは花小金井駅前から、村山貯水池の水を境浄水場まで送る水道道路の上を歩く。車を通さない遊歩道は若葉が茂り柔らかな風が心地よく、散歩の人走る人の行き来が多い。日影が多いから皆元気だ。

 

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青梅街道に突き当たったところに「小平ふるさと村」、小川村開拓当時の復元家屋やら代々続いた名主、小川家の玄関棟やらを展示。ボランティアガイドを依頼してある。くれぐれも開拓当時の話を手短に、と要請してある。

 

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しかし園内を回っているうちにガイド氏の説明はどうしても長くなる。その気持ちはよくわかる。ガイド氏としては知っていること学んだことをすべて教えたい、その親切心だから、とがめることはできない。一人時間を気にしてイララのラ。 

 

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 つまるところ予定時間を30分以上も超過、大いに焦る。この後は日盛りの青梅街道を陽に炙られながら歩かねばならない。だから早めに昼飯にして、まず皆の胃袋からなだめようとの心積もりも、これでどこかに消し飛んだ。どぎゃんすればよかと!

こちらは少しでも時間を取り戻そうと焦る。焦るから早足になる。夏日の、影もない街道の歩道を早足で歩かれた日にゃあ、たまったものであるわけがない。何の因果でこんな思いをせにゃならんのだ! と言ってるのが聞こえるような気がする。また焦る。

 

 

延命寺というお寺の境内で、開拓当時の飲み水の水路がいまだにちょろちょろと流れているのを見て、熊野神宮に立ち寄り皆疲れて大いに休憩し、小川新田開発当時からの平安宮というお寺でまた休憩し、休憩ばかりしていても暑さは体力をゴンゴン消費していく。早く昼飯にしないと、空腹でヒトはキレる。

ようやく昼飯の場所へ来た。夢庵、ジョナサン、蕎麦屋など飯屋が固まっている一角。さあ、どこへでも行って飯を食ってくれ、と安どの一息。なんだな、こう暑くちゃあ覚悟を決めて、ゆっくりやろう。無事之成功! 休み休みゆっくりと。

 

 

気を取り直して午後出発。午後はもっと暑い、一人たりといえど具合が悪くなってはならぬ。だから日影さえあれば休むこととした。20分も歩かぬうちに駅前の藤棚の下にベンチ、もっけの幸い即大休憩。

 

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小川村開発当時の何かがあれば立ち寄ることにしているが、何もない区間もある。休める木陰でもあればいいけれど、それもないこともある。そうなればただただひたすら歩くしかない。コンビニでもあれば地獄に仏。

 

 

ようやく小川寺に到着。小川村開拓当時の名主小川氏の開基、裏側に当時からの水路がちょろちょろ流れ、名主の墓、宝篋印塔そんなものをちらりと説明して長い休憩とする。終了時が多少遅くなるけれどやむを得ないではないか、いまは夏だ。

 

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 皆おもいおもいの場所に陣取ってよもやま話。こういう時間が一番楽しいかもしれない。暑い日に歩き回って昔の話なんぞ聞いても屁のようなもの、かもしれない。その楽しかるべきひと時を作るために、ま歩くようなものだけど。

 

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向かい側にある神明院に行く。これも開拓当時の小川氏の勧請による社。昔は1村に1寺1社が必須だったのかもしれない。現在と人そのものは変わらずと言えど信仰心の面では大いに違うのか、それとも信仰心のないのは自分だけなのかわからない。ここできちんと礼拝する人も多かった。

この先、青梅街道と別れ、開拓当時から生きてきた樹齢300年の大ケヤキを見、玉川上水から飲み水をを引いた分水路をたどり、玉川上水の土手道を歩く。日盛りは少し過ぎたとはいえ、緑濃い木陰の道はそよらと風もあり別世界のごとき。

 

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終点、玉川上水駅到着、5時少し前。

歩行距離約12㎞。ともあれ!

皆無事、これが一番。

 

 

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例により希望者は中華屋さんで一杯。

ビールに酔い紹興酒に酔ってわいわいがやがや、とりとめなし。