doniti 日誌

( おもしろき こともある世を おもしろく)

汗ふいて道の向こうに合歓の花

 いよいよ梅雨に入って、恐ろしいほどむしむしする。

 ぶらぶら歩きも、これで秋口まで休止やむなきや。

 

 

 

 資料館の庭で、木陰の風に吹かれながら昼飯をしている。桜の青葉が程よく鬼の陽ざしを遮って、やはり木陰はここちいい。さっき資料館の中をちょっと覗いてみたが、誰もいない森閑とした中で、受付のおばさんがこっくりしていた。

 

 

 今日は午前中、以前計画した散歩のルートが、無暗に丘陵の住宅地を登って疲れ果てたので、別方法を考え、駅からバス利用で丘陵の住宅地を天辺近くまで楽々と登り、目的とする場所まで到達する別ルートを開拓してきた。

 そこからこの資料館まで降りて、それで今回の目的は達したわけだが、この新ルートは満点ではないけれど、まあまあだろうと思うから、このあと半日、どこへ行ってもいいし、どこへも行かなくてもいいが、出かけてきた以上、どこかをぶらぶら歩きたい。

 



 昼飯も詰め込んで、さ~てどこへ行こうかと考える。ここから先は自由度全開、特に決めた場所がないからどこでもいいとして、今いる資料館は、多摩丘陵谷戸地形の奥の、鑓水の里と言われる懐かし気な場所にある。

 庭から向こうを眺めると、美しい青葉の森に覆われて住宅の屋根が見え隠れし、その手前には畑や田んぼが開かれている。草の緑が鮮やかに目に映る。いかにものんびりとした景色が目の前に展開している。よし! 決めた。このあたりをぶらぶらしながら、谷戸の入口の方へ歩いて行こう。

 

 

 手始めに、近くにお寺があるので立ち寄ることにする。参道の入り口に夏の花々がわんさか植えてあり、中でも立葵の深紅の大きな花が目を引く。山門を入れば、本堂への階段脇に、どういうわけか、地蔵さんらしきおっかない顔が睨んでいた。

 


 境内に登るとベンチとテーブルが設えてあり、ありがたや、早速休憩する。辺りを見回わすと、句碑の類の石が枝陰に林立している。掲示物によれば、どうやら明治に芭蕉を思慕する人々がここで俳句の結社を結び、その人たちの句碑のようである。

 そこで思い出した! このお寺にはだいぶ以前に来たことがあるゾ。すっかり忘れていたらしい。う~む、どうなっておるのか我が頭、この句碑の類を見るまで更に気付かず、二度目なのに感心して眺めておったゾ、損した。

 

 (芭蕉堂の額がある)             「先ずたのむ椎の木もあり夏木立(芭蕉)」の碑

 腰を下ろしている木陰のベンチは涼しい。こういう休憩場所を提供してくれるお寺は、ほんとにありがたい。お墓やお寺に対する考え方が、ガラガラと音立てて変わっていく昨今、いつの日かお寺が消えてしまうのは寂しいが、時代とあれば仕方がない。

 強い宗教を持たないと言われる日本人にとって、神社やお寺は本当に不要なものなのだろうか。唯物的に、神も仏の何もないのだ、と澄まして平気なものなのかどうか、どうもその辺りが、もやもやしていて分からない。

 

 

 お寺を出て近くの小泉屋敷へ行く。今でも現に人が住んでいる茅葺の古民家だそうだ。だから庭に踏み込まないように入口からそっと写真を撮った。屋根の萱も、壁や周りの木材も、しっかりしていて朽ちた様子は更にない。

 思うに、よほど頑固一徹な当主がお住まいなのではあるまいか。そそくさとして、今風の家に建て替えることを、頑として容認しない定見をお持ちなのではあるまいか。わが身のように、ただ流れるまま流されるまま、どこへ行くのかわからないような、そんな軟弱な当主ではないような気がした。

 

 

 さて、緑鮮やかな草に覆われた土手の下に、狭い道があった。車は入れないようでちょうどいい、この道を辿って谷戸の出口の方へ歩いて行こうと決めた。しかしこの道は土手の上に登ったり、また平地の方へ下ったりしている。

 まあ、木陰もあるし、こんな暑い日に歩くにはうってつけだ。スマホの地図を見ると土手の上はニュータウンの住宅地になっているようで、間違ってもそちらへは行かないことにした。そうして涼しく歩いたら大きな公園に突き当った。

 

 

 公園の脇にも先ほどと同じような小道がずっと続いている。適度に木陰もあって、ところどころに芝生の美しい広場もあって大変都合がいい。広場の木陰のベンチで休憩した。前面の芝がきれいに刈られ、青々と陽を受けている。その先に、谷戸の奥から流れ出した川が流れていて、ベンチまでかすかな水音が聞こえてくる。

 少し離れたベンチに自転車を担いできた人が座って、やはり休憩らしい。暇だから眺めていたら、自転車を丁寧横たえ、ヘルメットを脱いで汗を拭き、なにやら食べたり飲んだりにいそしんでいる。ポタリングというのも大変なんだナァ。

 またしばらく行くと道は上り坂になって、土手の右手に大きな野球場が見え、正面奥には陸上競技場があるらしい。大学生らしい若い男女が走ったり、つんつん跳ねたりしている。若い人はなんとも軽やか、あんな時代が自分にもほんとにあったんだろうか?

 

 

 ふと路面に目を移したら、ふわふわした赤い花が目に付いた。合歓の花じゃないだろうか。そういえば今頃の花だったんだなあ、「雨に西施が合歓の花」というもんなあ、と思い浮かぶ。愛らしいような頼りないような。

 

 目を上げると道の向こうに合歓の木があり、まだ花を付けていた。近寄ってみれば、花はふわふわとして掴みどころなく、色合いも赤いのだか白いのだかあいまいで、全く夢のような、現実を遠くに打っちゃったような存在である。

 しかしこの花を見ると、芭蕉のように美人の俤を胸に浮かべることはできないけれど、なぜか汗が引く思いがする。現実の暑さを一瞬忘れるような気がする。それでこの花をじっと見ていると、名前通り眠くなってしまいそうである。

 

 

 そこから少しで今度は鬼のように広い芝生広場に出た。どうやらこの細長い公園もここが最後らしいので、木陰のベンチでゆっくりした。大学生らしいのが三々五々連れだって運動している。かるがる飛び跳ねている。

 今更ながらだけれど、男女とも一様に足が長くしゅっとした体つきをしている。そして恐ろしいほど背が高い。こっちから見ると別の人類としか思われない。おそらく、親しく話したことはないけれど、考え方も別人類なのだろうと思う。

 

 同じ広場のあっちに目を向けてみたら、おなじみの人類らしいのが大勢で水の掛けっこをしていた。こっちの方はなんだか親しみを覚える。なんなら、大きくならなくていいから、いつまでもいつまでも、このまんまでいて欲しい。

 

 

 公園がお終いになったので、傍を流れている川っぷちに出てみた。両岸に遊歩道があるから車の心配なく歩けるし、ところどころ木が茂っているので暑さも防げる。そして川筋だから風も吹いて幾分涼しい。

 この川はずうっと下流で谷地を抜け、大きな川に合流するのだが、その手前でモノレールに突き当たる。ぶっつかったらそれに乗って家に帰ろうと思う。そして幾分か疲れてきたので、なんといっても休みやすみ、ゆるゆると参ろうと思う。

 

 

 川の両側は、狭い谷地地形の谷底でそこにびっしりと住宅が建て込んでいる。そんなところはとても歩く気がしないから、川っぷちの遊歩道から離れないようにする。それでも遊歩道には花も咲いているし、ベンチも設えてある。 


 

 ちょっとした広場のベンチで休む。走って通り抜ける人がいたので、熱中症は大丈夫なのか、とびっくりした。走る人はいつだってどこでだって走る。到底まねのできないことで、その度に頭が下がる思いがする。

 ふと見ると草むらにねじ花が咲いていた。街中ではめったに見かけないから珍しい。子供の頃はどこでも見かけたような気がするが、べつに絶滅危惧種というわけでもないようだから、たんにこのあたりでは珍しいということだろう。

 

 

 ときどき橋の上に立って川面を見る。魚はいないが、水の中で水草が揺れている。思わず見つめて、彼らは流れのなすままだなあと思う。足は川底の土を掴んではいるが、自分の意志を持たず、全く流れに翻弄されるままだ。なんだか自分を見ているような気がした。

 

 

 ちょくちょく休みながら歩いたが、なかなかモノレールにぶち当たらない。疲れてくると、どうも目的地というのは遠のいてしまうらしい。川っぷちのコンビニでアイスを買って齧る。冷たい甘さが体に染みこむようだ。

 少し元気が出てきてまた歩く。そうしてついに、赤い橋の先の空中にとうとうモノレールの橋げたがに現れた。正直ほっとした。まだ4時ころで日は高いけれどもうお終いにしよう。から元気を出して家に帰ることにする。

 

 

 最後は思わぬ苦戦を強いられたけれど、一日の総距離13㎞。

 梅雨の隙間のぶらぶら歩き、これにて完了。

 あとは秋口まで、休戦なり・・・か?