doniti 日誌

( おもしろき こともある世を おもしろく)

秋天さやか

 じめじめぐずぐずの天気が長く続いて、久しぶりの晴れ予報。

 どこかに、歩いたことがない田舎道に、行かねばならぬ。

 

 

 

 忘日、地図を開いて案ずるに、青梅から飯能に抜ける谷戸の道がある。途中からは、かって歩いた道になってしまうけれど、止むを得なければこれでもいいナ。できるだけ車の少ない、人も少ない道を、ぽくらぽくらと歩ければそれでいいや。

 

 青梅駅から西へ少し歩いて、北側の丘陵を抜ける小曾木街道に入る。いきなりの急坂が目の前に迫り、いささかうんざりするがまだ歩き始めだからエネルギーはOK。結構車が通るけれど、これも止むを得なければ即ち仕方がないと思うことにした。

 青梅線の線路を乗り越えて、道は緑の山へと突っ込んでいく。切通の影に入るとうすら寒い感じがするが、今日は雲さえ見えない青い空が広がって、天地は秋の空、という感じがする。秋はこうでなくちゃあ。


 頂上近くを短いトンネルでぶち抜いて、向こう側の光が見える。歩道が付いていてほっとした。ひんやりした空気の筒を抜けると、谷戸のてっぺん、両側を丘陵の緑に挟まれた狭い谷に、人家が2,3軒見えている。うう~む、いい雰囲気だぞ。

 背中に日が照って暖かい。こころが上空の青空に向かって、わあ~っと広がっていくような感じがする。歩いて気持ちがいいのは、たぶんこの解放されたような、この感じだ!  理屈じゃなくて、五感が感じるこの感覚なのだろうと思う。

 

 

  道っぱたの小さな花が目につく。遺憾ながら一個も名前を知らないのだが、植物も動物も、この星に生あるものは、とりあえず懸命に生きているんだなあ、と当たり前のことを改めて自覚する。しかしなんだナ、名前ぐらい覚えろよな。 

 



 ゆるゆると下っていくと、少しづつ家が増えてくる。柿がずいぶん色づいて、明るく柔らかな陽ざしに映えている。移り行く季節の緩やかな変化を、悠然としたこころ持ちで眺めて陶然とし、この中に溶け込んでしまいたい。時間はたっぷしある、急ぐなかれ。

 

 

 道脇の可愛らしい墓石に、「ありがとう」とか「感謝」とか、それだけの文字を刻んだお墓が目についた。目を上げてみると奥にお寺があるようだ。ここまで1時間ばかり歩いたから、お邪魔して休憩する。茅葺の本堂が清々しい。

 境内の樹木がきれいに刈り込まれ、それでまた清々しい印象を受ける。休んでいるベンチの脇に、なんというのか、真っ赤な実と黒い実が混じった喬木がある。その実に陽が反射してきらきら光っているように見える。

                



 そうして、気分最高で歩き、「黒沢」という信号に突き当たった。そういえばトンネルを抜けてからずっと道脇に小さな黒沢川が流れていたのだ。川面を覗くときらきら光る浅い流れに小魚が群れ、その魚の影が川底に見えるほど澄み切っていたっけ。

 黒沢川は信号の交差点を貫いて向こう側に抜けている。交差する成木街道を突き抜け、このまま真っ直ぐ小曾木街道を進むことにした。道路は二車線になったが、谷戸の谷間は幾分か広がっただけで、道に沿って家が散在しているのは変わらない。

 

 

 今までの風景とさほど変わらない鄙びた眺めが続く。道っぱたに道祖神やら甲申塔が固まっていた。おそらく道路整備で一か所に集められたのだろう。これからはこういう信仰も確実に消えていくのだろうナと思う。

 第一に、石仏で村境を画する意味がないし、こういう道をぽくぽく歩き、石仏を眺める人もいない。いま、人々は山に登るか、それとも整備されたイベント施設に群がるだけのようだから、日本から「信仰」の2字が消える日も遠くないに違いない。


 

 そろそろ休みたいなと思った頃、道端ににゅっと階段が現れて上にお寺がある。登って行って、境内にベンチがないから石垣の上に腰を下ろし、昼飯。爽やかな微風が頬を撫でていく。お墓参りの夫婦が二組、挨拶して通り抜けた。

 下に小学校とその向こうに中学校が見える。運動場に子供たちがちらほらする。こういう眺めは、遠く田舎に来たように錯覚するが、ふと気づいてみれば青梅市という東京の一角なのだから、まさに東京も広くかつ雑多だと思う。

 

 

 そうして歩いて行って、岩倉温泉に至った。ここは寂れにさびれてしまった風だが、まだ2,3軒だけ旅館が残っているらしい。諸行無常である。ここから先は歩いた道だが、とは言え一度か二度であり、かって知ったるというほどでもない。

 

 道っぱたにロッジ風のかっこいい大きな建物が見え、庭に薪が山ほど積んである。暖炉風の煙突も見える。この薪を暖炉にどかどかとくべて、壮烈、豪快に燃やしてみたい。たぶん気分がすっきりするだろうナ。看板は見当たらない。何の建物だろう?

 

 

 ちょっと脇道に入り、「常秀禅寺」というお寺があって、ここでまた休んだ。本堂の大屋根は緩やかな曲線を描き、威風堂々あたりを払ってどっしりと構えている。境内の桜はすっかり葉を落として春を待っている。ゆっくりと休もうと思う。

 石段に腰かけていると、墓参りに来た人が植え込みの陰から出て、一瞬びっくりしたように立ち止まった。う~~む、わが姿は人をして驚ろかしめるのだろうか、無暗に驚かしては申し訳ないから、端っこの方へ移った。

 

 高台の境内からあたりを眺める。畑の中に家が散在している。あの一軒ごとに人々が暮らし、何事かをしつつ生きているのだなあと思う。その何事かはたぶん、自分と同じように、世に役立つとか自己を向上させるとか、そんなことではないような気がする。

 じゃ、何のためにその何事かをしているのか。突き詰めれば”食うため”ではないのか。”食うために生きている”・・・動物とまるで同じじゃないか!? と考え、さらに突き詰めて、「うん、それでいい」と納得し、ようやく安心した。

 

 

 

 常秀禅寺を出るとすぐに埼玉県に入った。今度は成木川に沿った県道をゆく。川っぷちの崖の上に「浅草・浅草寺発祥の地/岩井堂観音」と書かれた看板がある。浅草寺発祥の地? ほんとかよ! と一人突っ込みを入れて過ぎ去る。

 

 

 県道の一段下の段丘に市営団地があるからそちらを歩く。畑が団地を取り巻いて、点在する住宅の背後に美しい丘陵が見え、その谷間の上に向こう側の美杉台団地の家々が覗いている。随分高い山の上の住宅団地だと改めて思う。



 団地沿いの道を行くが誰も歩いていない。ただ大きくて爽やかな秋晴れの空が、突き抜けるように広がっている。畑の一角がお花畑で、コスモスやらなんやら、ぼうぼうと空に向かって咲いていた。秋の花もこれで見納めかもしれないナ。

 

 

 広い道路に突き当たって左に曲がると、成木川を渡って美杉台住宅団地に入った。これで、このさんぽも終わりだな、と思う。並木の木々がすでに紅葉している。今年の秋は足早で、気付いたら、はや冬の入り口に立っているような気分だ。

 

 

 団地の幹線道路を下って行って、入間川を渡る。橋の下の流れは浅く、水が澄んでいる。まっすぐ行けば西武線飯能駅、ビルが現れて、大都会に戻ったような気分になった。ふと脈絡もなく、蕎麦が食いたいと思った。

 

 

 飯能駅近くで蕎麦屋を探す。2,3軒行ってみたがいずれも3時から5時まで休憩時間、怪しからんではないか! 今どき、ラーメンばかりで日本伝統の蕎麦を食う人は、都内を別にすれば、いなくなったらしい。なおのこと、怪しくりからん。

 

 

 

 

 街中を歩いて東飯能駅に行く。30分待って4時の八高線。帰宅して16㎞。

 今日もまた楽しかったけれど、ときどき無為なことをしてるなあ、と思う。

 しかし、わが存在そのものが無為であるかも知れず、それは致し方ないことだ。