doniti 日誌

( おもしろき こともある世を おもしろく)

青葉かげ地球測りて蝦夷地ふむ

 今月の歩く会は伊能忠敬

 江戸での暮らしを追うのだそうだ。

 

 

 

 なにしろ「4千万歩の男」である。それも江戸の昔に、50歳を過ぎてから、なのだからそれだけでもう十分すぎるほど驚異(脅威)を覚える。あまつさえ、婿入り先、佐原の米穀商、酒造家、伊能家の家勢を挽回して増やし、後顧の憂いをなくして隠居、江戸へ出て天文の勉強をする、というだから、その鉄人ぶりにぶっ魂消てしまう。

 今でいえば間違いなく高齢者であったはずのこの男、天文学(かの頭が痛くなる数学)を勉強し、地球の大きさを知りたい一心で、55歳から約15年間全国を測量して回って、有名な伊能全図を完成させたのだから、言う言葉も見つからないとでもない男。

 

 

 今回はその男のゆかりを探して歩くという。興味津々で集まった人は19名、近来まれな大人数、関心の高さがうかがえる。暑さも暑し梅雨入り前のドピーカンなれど、熱中症は自分持ち、歩く気満々、いざ参ろう。

 最初に深川、富岡八幡宮。ここは忠孝さんが測量の旅に出るごと、道中安全、測量成功を祈願した場所だという。恐ろしいほど巨大な赤い鳥居の奥に、青葉が亭々と茂りその奥にこれまた真っ赤な社殿が見える。 

 

 社殿もさることながら、鳥居のすぐわきに忠孝さんのブロンズが、まさにその一歩を踏み出そうとしている。う~む、この人が一身にして二生の大事を成し遂げた人であったか、と恐るおそる近づいてみる。

 その目は遥か陸奥蝦夷地を望むようで、きりりと結ばれたその口元は意志の強固を示し、臍下丹田に並々ならぬ力がみなぎる姿。もしあの目で見据えられたら、へい、令和の腰抜けでんねん、あんじょう願いまする、と卑屈になりそうだ。

 

 

 忠孝さんに挨拶をし、八幡宮さんに敬意を表して、次に忠孝さんの旧居跡に向かう。既に陽はじりじりとあらゆるものを焼き焦がし、伝い歩く影さえ見当たらないが、大通りの歩道に一本の棒杭が建っていた。

 「伊能忠敬住居跡」とそっけない。彼は地球の大きさを知るために、この住居と浅草の天文台との距離を何度も計測したのだそうだが、それではあんまりにもあんまり、距離が短すぎて、と師匠に諭され、蝦夷地測量の名目で幕府の許可を得、奥州を真っ直ぐ北上することで測定に必要な距離を得ようとしたのだとか。

 そして齢五七のとき、子午線一度の長さを、28.2里と算出した。え~と、一里は3.94㎞だそうだから、一度の長さ=3.94×28.2=約111㎞。それで地球は360°だっていうのだから、111×360=39960㎞と。たしか小学校で40000㎞とか習ったなあ。

 

 

 如何なる技法を持って子午線一度を図ったか、それは知らないし、そんなことを知ろうとすれば瞬時に頭が割れるほど痛くなる。だからそれはもういい。ただ距離は一歩の長さだという。一歩の長さを固定し(どうやって固定する?)、その歩数で長さを出したらしい。一説に忠孝の一歩は69cmと。

 これまた脅威である。身長ちんちくりんの身には、一歩せいぜい60cmぐらいしかない。69cmコンスタントとあらば股が避けるほど踏ん張らねばならない。江戸時代人、忠孝さんもそうデカイ人とも思われないが、この開き!

 

 

 閑話休題。次の立ち寄りは忠孝さんならぬ芭蕉さんのゆかり、採荼庵跡。仙台掘の川岸に近く、”松嶋の月 まず 心にかゝりて 住る方ハ人に譲り 杉風が別墅に移るに---”の杉風が別墅があった場所らしい。

 障子戸を模した壁を背景にして、濡れ縁に腰を下ろした芭蕉さんが、遠く奥の空を望んでいるのか、その目は鋭い。芭蕉さんも忠孝さんも、ともに歩く人だから、構ったことなく付会すれば関連がなくもないような気もする。

 

 ”月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。”なんだから、人生もまた「旅」であるらしい。旅なる人生もまたそれぞれ。かたや4千万歩で前人未踏、正確な地図を残し、かたや奥を巡って不朽の名作紀行を残した。

 そして・・・なにも残さず、身一つのみ海の藻屑となって消えていくオレ。これもまた致し方なし。そうそう前人未踏やら不朽の名作やらを残しちゃあ、世のなか未踏や名作だらけになってしまう。潔よく身一つのみ海の藻屑で結構。

 

 

 さて、その先に清澄庭園がある。お待ちかね、豪勢なる昼の宴をとり行うべく、入口に並ぶ。おりしも西洋お婆の集団、入り口付近のベンチにたむろし、たいそう威張った風情で入場を待っている。

 日本人の若い旗持が窓口でさっきからエラク時間がかかっている。西洋お婆の塊の人数なんぞ、一人二人多かろうが少なかろうが構ったことではないから、さっさと入ればいいのだ。こっちを炎天下に立たせておいて、なあ~にをぐずぐずしている。

 

 庭園の池が視界に広がって、すっと汗が引く思いがする。取り囲む樹木の青葉、平らに広がる水の青、涼亭がアクセントとなって、いい眺めだ。回遊式だからともかくも池を巡って回遊してみる。刻々と目先が変わって島が見えたり隠れたり、入江が出たり引っ込んだり。


 西洋の庭園は(行ったことがないから写真で見ると)、ただ能もなく真四角であるようだ。池さえ四角であって、ただ広いだけの四角い庭に樹木が等間隔に並び、それが丸だの三角だの四角だの刈り込まれ、一目見たらそれで、もういいやと思うようだ。

 東洋、特に日本の庭は、自然らしさを取り込んで曲がりくねり、自然を愛でるように作るらしい。が、彼らは違うようだ。彼らは自然を踏みつけ、ねじ伏せて、彼らの思う通りに改造しようとするのだろう。だから丸や四角や三角になるに違いない。

 

 

 

 しかしそんなことはどうだっていい。なにはともあれ、豪勢なる昼の宴を挙行しなければならない。奥まった自由広場の木陰のベンチにそれぞれ陣取って、大ご馳走なるコンビニおにぎりなどを食す。

 目の前の溝に花菖蒲が満開になって、紫や赤や白い花が的礫と陽に輝いている。ぼんやり眺めて、花に気持ちが和む。皐月の風がさわさわと吹いて、青葉の葉ずれの音を残し、命なりけり都会の庭園。

 

 

 昼飯が終わって、さて炎天下、しばらくの街中を歩き。小名木川を越えて芭蕉記念館あたりの脇を抜け、ずんずんと行きたいが、よろよろ歩き、しかし死ぬような顔をしないで、涼しい顔を繕い、両国橋を渡って、神田川の岸辺の広場に到着。

 ここは浅草見付跡、番所があったところだという。思い思いに植え込みの縁に座ったり、石の上に腰を下ろしたり、ともかく大休憩を執り行う。隅田川の風と神田川の風が混じって心地よく通っていく。川辺近くはやはり涼しいと知った。

 

 

 大休憩して英気を取り戻し、総武線の下をくぐって榊神社に立ち寄った。幕府の蔵書蔵、いわば図書館があった場所だという。忠孝さんもこの図書館で勉強したのかもだが、境内にポンプ式井戸が残されていた。

 ガチャコンやったら冷たい水が出た。どっちかというとこっちの方が面白くなって、頭からかぶって震えたり、滴を掛け合って子供のように遊んだり、爺婆が子供に立ち返ったらしい。暑さでイカレタのでは決してない、子供になってしまったのだ。



 近くの「浅草天文台跡」へ行く。歩道が少し広げられて樹木が植えてあり、そこに一枚の説明板があるだけだが、案内者が配ってくれた北斎の「浅草鳥越の図」によって、江戸時代の天文台の姿を想像することが出来る。

 説明板によれば、「「司天台の記」によると、地所内には周囲約93.6m、高さ3丈(9.3m)の築土した台があり、築山の上に、約5.5m四方の天文台が築かれ、43段の石段があった。」とのことだから、想像以上の大きさだったらしい。

 


 我らが忠孝さんも深川からここまで日参し、高齢隠居の身ながら、こ難しい天文学を一心不乱に勉強したに違いない。今でいえば80歳近い爺様が超難解な数学らしきものを学び、理解したということなのだろうか。うんざりするほど頭が下がる。

 それだけでは勿論ない。1800(寛政12)年、齢55のときに蝦夷地測量を実施したことをはじめとして、1816(文化13)年、齢71で「大日本沿海実測全図」作成に取り掛かっている。今でいえば、90を超えた老人が、体力気力の衰えをみせずに大活躍、ということになるだろうか。まったく息をのむほどの驚異でしかない。  

 

 

 

 

 身分制ガチガチの江戸時代にあって、忠孝さんは一介の庶民。

 彼はわれら庶民の北極星となって、北の空に輝いている。

 4千万歩! なん㎞だ?・・・ああ、もう計算できんぞ!!