doniti 日誌

( おもしろき こともある世を おもしろく)

五日市憲法草案の地

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 東京の西のはずれ、電車の行き止まりに五日市という街がある。

 この街では、明治私擬憲法草案が起草され、山奥の土蔵に眠っていたのを昭和になって発見され、その先進的な規定が一時期話題になった。草案を作ったのはこの街の青年たちであり、その面でも注目された。 

 今回はその関係の場所をみんなで尋ねてみっか、ということで、JR五日市駅に6人が集まった。いずれ劣らぬ爺、婆ではあるが、明治の世ながら憲法草案に情熱を注いだ青年たちの熱気を偲び、あわよくばちびッとあやかりたいと思う。 

 まずは草案が眠っていた例の土蔵に行くのだが、駅から4㎞も沢伝いの細道をだらだらと登らなければいけない。その場所に草案検討の中心人物となった深澤権八の屋敷跡と、そして再建された土蔵がある。

 

 

 駅の裏手の階段を上ると、そこは住宅がちらほらあるものの、すでにして細道でありしかも結構な上り坂になっている。駅から出てきた20人ほどの団体が、皆一斉にストックを出して、これからとんでもない急な山へでも上るが如き装いをしている。

 この人たちは、深沢屋敷へ行く途中のアジサイ山へ行く人たちであるらしい。老人が多いが若い人も混じっている。季節はアジサイだけれど、下見をした限りでは急な山の斜面にアジサイが植えこまれているだけであり、まあ、帰りがけに気が向いたら立ち寄ってみようと、ひとまずは深澤屋敷へ直行することにした。

 

 

 道が突き当たって、その向こう側が大きくえぐれた谷になっている。多摩山地が平地に降りてくる境目だから、起伏の激しい谷間が多い。江戸時代、武州世直し一揆をこの谷の向こう側の坂道で食い止めたのだそうだ。まいまい坂という看板がある。

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 まいまい坂のところで、ストック軍団に追い越されたが、その先の穴沢天神社という社で軍団は大休憩をしていた。それで真似をして、隣の材木置き場みたいなところで、こちらも大休憩。風がないからじっとりと背中が汗ばむ。

 周りの山は緑が青々しい。その緑に囲まれて所在なく腰を下ろしている。ここまででも道はなにげなく上りであった。これからもなにげなく上り道、このなにげなく上りが案外くたびれる。

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 歩き出すと小さな沢が道に沿ってきた、いや沢に道が沿っている。きれいな浅い流れの中に、20cmばかりの魚が泳いでいる。いるよ、いるいる、なんだろう、ヤマメかなあ、と一行も興奮する。

 休憩の後しばらく歩くと南沢のアジサイ山への分岐点となった。今まで前後して歩いていた人たちが皆そちらに分かれていく。その分岐点あたりにもアジサイがたくさん咲いている。とりあえずそこだけ見て先へ行く。

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 細い道の両側は山の斜面だが、ときどきちょっとした平地があり、丘陵の中の樹木に埋もれるようにして、大きな家屋が見える。それを見て。冬の夜など淋しいだろうなあ、どんな人が住んでいるんだろ。という者がいる。

 あるいは古い二階建ての家屋が現れる。あれはなんだナ、お蚕を飼っていた家だな、二階でお蚕様を育て居たんだよ。どこかの地方出身の誰かが蘊蓄を述べる。それにしても、まだかいな、遠いんだなあ。これも誰かが言った。

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 道っぱたにはいろんな花が咲いているが、今日は野草に詳しい人がいない。なんとなく眺めながら、ますます細くなった道をゆく。道脇には盛んにアジサイが咲いている。こんだけアジサイを見れば、アジサイ山なんて行かなくてもいいじゃないか、とまた誰かが言う。

 

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 ようやく深澤屋敷跡に到着した。木の下をくぐって山側の細い道に入ると、目の前に古めかしい門が、どん! という感じで建っている。門のくぐり戸を入るとテニスコートぐらいの草原になっている。この草原が屋敷跡だという。

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 草原を眺め渡して、山林地主だった深澤家というが、案外狭いんだな。いや、家を建ててみれば思ったより広いもんだよ、などと言う。明治時代の、東京の奥のさらに沢の奥深い、この地では立派な屋敷だったのかもしれない。

 奥に再建された土蔵がある。薄暗い木の下で白壁がやけに白い。脇に、草案が発見された当時の土蔵の写真が掲示されている。それを見ると、屋根破れ壁崩れて、ぼろぼろだったことが分かる。

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 ところで、なんでこんな山奥で憲法草案なんだ!? 明治の初めこの地の小学校、勧農学校へ仙台藩士の千葉卓三郎という者が先生として赴任してきた。この人が火付け役だったんじゃないかな。それへこの地の豪農の息子、深沢権八が共鳴して、二人で五日市学芸講談会という草案検討の組織を作った、と言ことらしいよ。

 

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  千葉卓三郎(31歳没)               深澤権八(29歳没)

  

 

 その当時は憲法草案など全国にいくつもあっただろうに、なんでこれが有名なの? それは人権関係の規定が当時としては考えられないほど進歩的だったかららしい。例えば、読みにくいけど、ここに一分抜粋してみる。

四五条基本的人権日本国民ハ各自ノ権利自由ヲ達ス可シ他ヨリ妨害ス可ラス且国法之ヲ保護ス可シ

四七条〔法律上平等〕凡ソ日本国民ハ族籍位階ノ別ヲ問ハス法律上ノ前ニ対シテハ平等ノ権利タル可シ

四九条〔身体・生命・財産・名誉の保護〕凡ソ日本国ニ在居スル人民ハ内外国人ヲ論セス其身体生命財産名誉ヲ保固ス

五一条〔事前検閲の中止〕凡ソ日本国民ハ法律ヲ遵守スルニ於テハ万事ニ就キ予メ検閲ヲ受クルコトナク自由ニ其思想意見論説図絵ヲ著述シ之ヲ出板頒行シ或ハ公衆ニ対シ講談討論演説シ以テ之ヲ公ニスルコトヲ得ヘシ

 但シ其弊害ヲ抑制スルニ須要ナル処分ヲ定メタルノ法律ニ対シテ ハ其責罰ヲ受任ス可シ

五八条〔集会結社の自由〕凡ソ日本国民ハ結社集会ノ目的若クハ其会社ノ使用スル方法ニ於テ国禁ヲ犯シ若クハ国難ヲ醸スヘキノ状ナク又戎器ヲ携フルニ非ズシテ 平穏ニ結社集会スルノ権ヲ有ス

 但シ法律ハ結社集会ノ弊害ヲ抑制スルニ須要ナル処分ヲ定ム

五六条〔信教の自由〕凡ソ日本国民ハ何宗教タルヲ論セス之ヲ信仰スルハ各人ノ自由ニ任ス然レトモ政府ハ何時ニテモ国安ヲ保シ及各宗派ノ間ニ平和ヲ保存スルニ応当ナル処分ヲ〔為〕スコトヲ得

 但シ国家ノ法律中ニ宗旨ノ性質ヲ負ハシムルモノハ国憲ニアラサル者トス

六二条〔財産所有の権利〕凡ソ日本国民ハ財産所有ノ権ヲ保〔固〕ニス如何ナル場合ト雖トモ財産ヲ没収セラルヽコトナシ公規ニ依リ其公益タルヲ証スルモ仍ホ時ニ応シスル至当ナル前価ノ賠償ヲ得ルノ後ニ非レハ之レカ財産ヲ買上ラル ヽコト〔ナ〕カル可シ

七六条〔教育の自由〕子弟ノ教育ニ於テ其学科及教授ハ自由ナル者トス然レトモ子弟小学ノ教育ハ父兄タル者ノ免ル可ラサル責任トス

七条地方自治権〕府県令ハ特別ノ国法ヲ以テ其綱領ヲ制定セラル可シ府県ノ自治ハ各地ノ風俗習例ニ因ル者ナルカ故ニ必ラス之ニ干渉妨害ス可ラス其権域ハ国会ト雖トモ之ヲ〔侵〕ス可ラサル者トス

一一二条立法権の優位〕国会ハ政府ニ於テ若シ憲法或ハ宗教或ハ道徳或ハ信教自由或ハ各人ノ自由或ハ法律上ニ於テ諸民平等ノ遵奉財産所有権或ハ原則ニ違背シ或ハ邦国ノ防禦ヲ傷害スルカ如キコトアレハ勉メテ之レカ反対説ヲ主張シ之カ根元ニ遡リ其公布ヲ拒絶スルノ権ヲ有ス

九四条〔死刑の廃止〕国事犯ノ為ニ死刑ヲ宣告ス可ラス又其罪ノ事実ハ陪審官之ヲ定ム可シ

 

  一番素晴らしいと思うのは、五日市学芸講談会で近隣の若い衆を集め、民権などに関する事項を徹底討論していることかなあ。今で言えばデベートだな。例えば「討論題集」には、

「自由ヲ得ルノ捷径ハ智力ニアルカ将タ腕力ニアルカ」

「国会二院ヲ要スルヤ」「議員ニ給料ヲ与フルノ可否」

「女帝ヲ立ツルノ可否」「女戸主ニ政権ヲ与フルノ利害」

「贅沢品重税ヲ賦課スルノ利害」

など、今日的な問題も多いらしいよ。

 

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 そんな話をしながら、湿っぽい草原の中でしばし佇んだ。そして深澤屋敷跡を出て、近くの広場で昼飯。なんといっても昼飯時が一番。曇った空に風はないけれど、雨も大丈夫らしいので、ゆっくり休む。

 そして引き返した。アジサイは途中で十分堪能したからもういいや、というので、アジサイ山には行かない。五日市の街まで戻って、中学校の隣にある五日市憲法草案の碑というのを見る。中学生が昼休みにわらわら出てきた。

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  その後、郷土館へ行く。小さな展示室に五日市憲法草案の全文が張り出されていた。毛筆の細かな字は虫眼鏡が必要だ。関連する写真なども一通り見る。ここには平成天皇と美智子妃殿下(当時)が来られて熱心に見学された由である。

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  さあて、これからどうする? 寄る歳なみ、みな様お疲れのご様子なれば、川向こう山の中腹の広徳寺へ行くのは止めよう。代わりにアップダウンのない阿伎留神社に参拝した。由緒深い神社で、お神輿が蔵にいくつも並んでいた。

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 最後は勧農学校跡地。千葉卓三郎が赴任した小学校。五日市学芸講談会で当時のうら若き青年たちが憲法草案を巡ってデペートに明け暮れた場所。現在はお薬師様だかが祀られ小さな広場になっている。

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 さてさて、考えてみれば、なにも残っていない深沢までただ歩いただけ。なんだかなあ!と思う。「憲法草案に情熱を注いだ青年たちの熱気を偲び、あわよくばちびッとあやかりたい」などというのは、どこか遠くへ行方不明。

 ただの草地を見るために、延々沢道を歩いて何になる! と一同そう思ったに違いない。そりゃあ、年寄りにはいい運動になったかもしれないけれど、運動なら運動らしいやり方もある。しかしまあ、梅雨空の下、ほどよいハイキングだったと、無理にでもそう思うことにしようか。

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 駅で電車待ちに時間があったので、売店で生ビールごくごく。うめえのなんのって!

 本日10㎞ほどのさんぽ。