忘夜、グーグルマップを開いて、あちらこちらと眺める。
近場で、まだ歩いていない、どこか田舎道はないか?
山道だったらなんぼでもあるが、山道を登る元気を持ち合わせていない。
つらつらと眺めるのだが、なかなか見つからないなか、やっと一つ見つけた。
忘日、多摩川のちょっと上流にある駅まで行ってから、歩いて川に突き当たり、橋を渡る。いつもの水量より幾分多めの、青い水が流れ、秋の風が柔らかく吹いてきて、心地がいい。暑からず寒からずだが、春のここち良さとは何かが微妙に違う。
対岸に渡って土手道を歩く。土手道の山側は住宅がびっしりと埋めている。こんな河川敷のような場所にも住宅地があることに驚く。しかし考えてみれば、ほんの数十年前まで住宅はなによりも必要とされていた。
ちょっとした隙間があればたちまち住宅、あろうことか山を削り谷を埋め住宅、そんな時代だったはずだ。それに比べ、これからの少子化の時代、住まいは、ゆったりとそして広く、贅沢に余裕をコクいい時代になるのだろう。
土手道を進んでいくと、赤い草刈りコンバインがなんと、斜めったまま土手の斜面の草を刈っていた。う~む、斜めったまだ。こういう光景は初めて見たのでガゼン興味がわく。運転手も斜めったまま座っているのだろうか。それだったら辛いだなろうなあ。
近くに行ってみたら、運転手は立った姿勢であり、足元のステップが上に大きく開いたコ字型をしていて、左に斜めった場合左のステップに立つと体がまっすぐになるようにできている。う~~む、これはしたり、うまくできているなあ。
この土手に草刈り軍団が5,6名。棒の先に小さなエンジンが着いたパーソナル草刈り機を操っている人もいる。そうか土手はこういう按排にして草を刈るのか、となんだか納得した気分になった。そうして土手道が尽きて、砂の河原で道が判然としない。
後戻りは効かない性格なので、ずんずんほいほい、道なき河原を突っ切っていくと、茶色い煉瓦の老人ホームがあって、そこで極まった。仕方がないので中段の河岸段丘まで40m、えっちらおっちら、ひーひー言いながら坂道を上った。
登ると車が通る街道だが、しかし車は少なく、風が通る。山側の道っぱたの草地や谷側の多摩川崖っぷちの雑木林に様々な花が咲いていた。自慢じゃないが、珍しいとか、きれいだなぐらいは自分でもわかるが、しかし、花の名は知らない。
道は下りになってまた河川敷住宅地へ降りて行く。秋の陽ざしの中で森閑と静まった住宅の脇や細道に、菊が陽に照り生えている。そうか、菊香る季節に突入したか。季節は矢の如し、それは後で振り返って思うことであり、当座は矢のように早くはない。齢をとったら過去を振り返ってはならぬ、流れるままに身を任そう。
住宅の脇の土手道の両側に草が茂ってきて、蝶、バッタ、トンボ、わらわらと飛んでいる。そいつらが、顔の前をひらひらしながら、やーい、カメラを持つなら撮ってみろ、や~い。とひとを小ばかにする。うぬ~、撮らずにおくものか、こんにゃろ!
カメラを構える、すっと逃げる。また構える、ひらりと逃げる。こんにゃろう~じっとしてろバカ! また顔の前をひらりひらり。もう頭に来た。もうなに構わずシャッターを切る。どうだ参ったか。・・・闘いすんで日が暮れないけど、結果!
全滅!! なんだこりゃ、何かが写っているらしいけれど、どれもみな草に焦点があっている。奴らは動くから、しっかりと焦点を定めてからシャッターを切るなんてとてもできない。草花ならもう少しなんとかなるが、虫けらどもはどもならん!!
なんとか見られそうなのは、これ一枚だけ。これだってなんとか蜻蛉だな、ぐらいはわかるがとても「いい一枚」には程遠い。愛読しているブログの人は、虫や小さい花を撮るのが実に旨くとてもきれいだ。コツを教えてほしいと思う。
またまた、土手道が途切れた。途切れるあたりにジーさんが4、5人、双眼鏡や望遠鏡を構えている。なにをしているのか、と聞くと、鷹が暖かい地方に帰っていく、そのお見送りだ、といった。へ~、初耳、鷹も渡るのか? 聞き間違いじゃないよな!
ついでに、この先向こう側に抜けられるか? と聞けば、支流が流れ込んでいて、濡れる覚悟なら行ける、という。冗談じゃない、濡れるのは嫌だ。そんな顔をしたら、ま、だいぶ水も引いたし、何とかなるじゃろ、と。一緒にいたバアさんが胡散臭げな目を向け、なにこの人! 何にも知らずに歩いているの? みたいな顔をした。
行けるだけ行ってみようと思い、途切れた堤防のさきの藪に突っ込んでいくと果たしてあった。小さな川がちょろちょろした水を流している。が、しかし、その川の中に丸たん棒がかけ渡してあり、川面に石も積まれ、無事渡り切った。ふむ!?
その先が大変だった。岸辺の斜面に獣道ほどの細い踏み跡が続き、うっかりすると、ずるずると多摩川へ落ちそうになる。なんとか踏ん張ってそこを乗り越え、踏み跡は平らになった。目の前が開け、青い多摩川の水が急いで流れていくが見える。
川原の幅は狭く、流れが押し詰められて急流の趣を呈している。どうやら事前にグーグルマップで見た一番の急所は脱したらしい。過ぎてみれば、この急所と思われるところも面白かった。何か少し位緊張する場面もなきゃ、ネ。
前方が舗装道となって、そこに芝生の広場が現れた。看板に「大多摩観光グラウンド」と出ていたがそれだけで、よくわからない。芝生がきれいに刈られているだけの、あっけらかんとした広場だが、ちょうど昼時なのでここで昼飯とする。
木陰の芝生に腰を下ろし辺りを眺めると、芝の広場の先には打ちっぱなしのゴルフ練習場があり、中年男女が出入りしていた。一般的な公園でもなさそうだ。けれどそんなことはどうでもよくて、芝生の上空にはトンボがいっぱい泳いでいる。
小さくて赤くないから、赤とんぼとは違うようだ。秋津洲というぐらいだから、その昔は日本はトンボだらけだったのだろうか。しかしなあ、トンボじゃ腹の足しにならなかったろうなあ。風がそよそよと吹いてきて、とても気分がいい。
その先へ進むと打ちっぱなしの次にはパターの練習場がある。ゴルフは今も大人気なのだろうか。グーグルマップを見ると、日本中いたるところ(おおむね山だが)、ゴルフ場が見える。この近辺でもエライ仰山ある。
高級な球技のテクニックが全く欠けているので、ゴルフは道具だけになってしまっているが、紳士淑女はやはりゴルフなのだろうなあ。どのみち紳士にはなれないガサツ者だからいいのだけれど、歩く以外に能がないというのも考えものだ。
歩いていると、かように頭の中が取り留めなく、雑念が浮かんでは消え、消えては浮かんでくる。少しは秋の日の、もの哀しさでも浮かんでくれればいいのに、ちっとも浮かばない。もの言えば唇寒し、だしなあ。
そうして多摩川の土手道は終わり、吉野街道の住宅地に入った。この街道は多摩川を挟んで青梅街道と並行しており、だから交通量が案外多い。だからこの街道は避けたいが、近くに「小作の取水堰」があるので見に行ってみた。
橋の上から眺めると堰はだいぶ遠い。ここで多摩川の水を取り込んで、多摩湖へ送水していると聞いたことがある。堰の上流部は川底がだいぶ浅くなって、泥が見えている。向かって左側に取水口があるはずだが、ここからは見えない。
帰宅してグーグルさんにお世話になってみると、左岸にヒョウタンのような施設が見えている。取り込んだ水はここから送水しているに違いない。しかも、それは自然流下式で、ポンプなどは使っていないらしい。
街道を避けて山側の小道へと入る。そこでまた坂道をえっちらおっちら登ることになった。住宅の間の細道をぽくぽくと歩いて行く。単調である。土手道のようにいろいろと目の前に現れない。それはしかし仕方がない。
小学生が下校する。彼らは全くエネルギーの塊だ。走る跳ねる飛ぶ、ちょっとの間も静かに歩いていない。羨ましい。けれど、そう言えば、こういう時代も確かにあったのだ。忘れているだけで、エネルギーの塊の時があったのだ。
あのエレルギーはいったいどこへ行ってしまったのだろう。無駄遣いした覚えもないし、ごみと一緒に出してしまった覚えもない。なんだか知らぬ間に、自覚しないうちに、こつ然として消え去ったような気がする。
どこからともなく、金木犀のかぐわしい香りがむんむん押し寄せてくる。まさに秋が始まったのだとの思がする。陽が少しづつ少しづつ、傾き始める。なるべく山陰の木立の下を歩く。家の庭のサフラン(だろうと思う)の色に目を見張る。
傾きかけた西の日に、柿の実が照り映えている。小さな実だが鈴なりに生っている。ふと、甘柿だろうかそれとも渋柿だろうか、生っているものはなんでも口に入れたがる性格は、そのような無粋な思いを抱く。
多少足が疲れてきた。住宅の間の細道を縫うようにして歩きながら、休憩できる場所を探した、が、見つからない。スマホでコンビニを探したが、ここから遠い。道端に墓地を見つけたので、影になる部分を見つけて休憩する。
お墓に、○○家の奥津城、と彫ってある。古い習慣がまだ残っているのだろう。なにやら典雅な気がしないでもない。傍らの石垣に苔が生えている。美しい緑の苔の中に小さな黄色い花のようなものが見える。苔の花だろうかと思う。
そうして休んでいるうちに突然、もう帰ろうかと考えた。まだそれほど歩いていないけれど、何だか妙に足が疲れた。段丘を登ったり、山際に上ったり、そしてまた、日差しが意外と強かったせいもあるかと思う。
そう考えると、もう帰る気にばかりになった。惰弱である。だらしがないのである。しかし帰る気になった以上、是が非でも帰ろうと思う。そして吉野街道に出、橋まで下って渡り、下ったのだから対岸を登り返し、青梅駅に着いた。
4時ころの電車に乗って、車内で化粧する少年(又は青年)を見て魂消た。
歩行距離は約16㎞。これからもいい季節が続きそうな予感がする。
しかし、近場で、まだ歩いていない、どこか田舎道を探すのは至難だなあ。