doniti 日誌

( おもしろき こともある世を おもしろく)

彼岸を過ぎてヒガンバナ

 

 日中の、鬼のような暑さが和らいだので、朝散歩から昼散歩へ、

 衣更えにはまだ早いようだけれど、散歩形態をチェンジ。

 

 

 

 昼近くになって多摩川へ行ってみると、ふだんの二倍ほどの水が笹濁りして流れていた。地上では雨も風もほとんど影響がなかったけれど、どこか上流に案外な雨が降ったのだろう。今日はその台風も無くなって、久しぶりにいい天気。

 

 

 多摩川の河川敷野球場には、休日だから、少年たち中年たちがわらわらとより集って青空の下で気持ちよさそうに野球の試合、木陰でぼんやりと見物していても、吹く風が柔らかく青空が目に沁みる。

 


 河川敷野球場を過ぎると、田んぼや畑が目いっぱいに広がる。そして田んぼの畔にヒガンバナがところどころ。田んぼとヒガンバナを見たくて、ここに来たがどんぴしゃりだった。黄色の稲穂の海に真っ赤な花が目に突き刺さる。

 



 不思議な花だなあ、と思う。ほかの花がだんだんと消えてゆくこの季節、この花は頑として自己主張し、いやがうえにも目立つ。ヒガンバナは、埼玉県の巾着田がもの凄いことになっているが、なんもダァ、ここだって十分見ごたえがあるんでねぇかい。

 



 あぜ道を歩いていると、わらわらとイナゴが飛び出す。そして田んぼの方へ逃げていく。それで思い出した。昔、小学校の頃、このイナゴ取りをやらされ、それが嫌で嫌で、出来れば逃げ出したい衝動にかられたことを。

 山の中の小学校は、秋の一日、学校ぐるみで「イナゴ取りの日」があった(ええ~っ、ウソ、ほんとう!? という声が聞こえる)。秋の一日、学校へ行かずに、家の近所の田んぼでイナゴを捕まえ、お袋が手ぬぐいをチクチクして作った袋に入れ、午後になって学校へ持参するのだ。

 しかし、イナゴだって馬鹿じゃないからそうそう簡単には捕まえられない。ひーひー言いながら袋の底の方に僅かにイナゴを入れて学校へ行くと、保健のおばさん先生が一瞥、たったこれだけ~、だらしないわね、などと言い、傍の大釜で茹でるのだった。

 級友はみな、袋をパンパンにしていたから、確かにとろい子供だったことは間違いないが、ひ~ひ~言って田んぼを這いずり回り、挙句の果てに怒られるのだから、この一日がどんなに恨めしかったことか、恨み骨髄、今でもイナゴは敵だ。

 

 

 イナゴ取りの思い出はともかく、広々とした田んぼの上の空が広い。その上を風がさわさわと吹き抜けていく。この夏は妙にじとじと湿っぽくて、それでいて気が狂ったかと思えるほど暑かったが、この秋は、清澄で閑寂で颯々とした日々が続いてほしい。

 

 

 多摩川の右岸に沿って遡行し、低い丘に囲まれた隠れ里のような一角に入る。広い沖積台地の畑地は、しかし半分ほどに作物が生えているだけで、大部分が放置されたままだ。いま耕作している人がいなくなれば、一面の草の荒野と化すのだろうか。

 耕作放置の土地が目立つたびに、何とかならんかなあ、と思うものの、じゃ、おまえがやってみろ、と言われると、ぐうの音も出ないから、いつも下を向いて歩くしかない。日本の農業はどこへ行ってしまうのだろう、おぉ~い。



 足元からバッタが飛び出した。しかし飛び方が変てこりんで、何だかふらついている。着地したのを見たら、おんぶされた二匹。身の危険を感じても離れない、とは見上げた根性だが、いささか常軌を逸しているようにも思う。

 子供の頃、トノサマバッタを捕まえると、そのあまりにも堂々として威厳に満ちた姿に、思わず胸の鼓動を禁じ得なかったものだ。自分よりはるかに小さいくせに、昂然と胸を張るその姿に気おされてしまうようだった。

 

 

 山に育ち、トンボやバッタやイナゴ、フナやハヤやイモリなどと友達付き合いができたことがほんとにありがたいと、今にしてそう思う。何しろ実物と毎日付き合って遊んでいたのだから、その姿かたちを今でも鮮明に覚えている。

 トンボの複眼? あああれのことか、イモリのおどろおどろ? ああ確かにあの姿、など即座に頭に浮かんでくる。しかしながら、さりながら、草と花と木とは、なぜか知らないが友達になれなかったらしく、今でも誰がどれだかわからない。

 現代の子供たちは、あの濃密な友達付き合いが皆無だろうから、ある意味ではかわいそうな気がする。生き物を捕まえてどきどきするような経験もないのだろうし、その変わりと言ってはなんだが、デジタル関係はとんでもない大知識なんだろうけれど。

 

 

 そうして今度は秋川の右岸に沿って歩いて行く。何気ない住宅の中に、朽ちかけ崩れかけたお地蔵さんに、毎年赤い服を着せ替えて、雨露をしのぐ屋根を設え大事にされているらしき気配に、しばし佇んで眺める。

 秋の柔らかな陽がようやく陰りはじめ、穏やかな風が赤い服の裾を揺らしている。こういう景色に出会うと、時の巡りの長さと、そのゆっくりとした歩調を意識する。人間80年、なんぞ短き也。

 

 

 

 そうしてサマーランドの手前まで来た。小さな公園で一休みする。丘を利用した長い滑り台と、ブランコぐらいしか遊具はないけれど、子供たちは嬉々として楽しいらしい。子供たちの笑顔はほんとにいいものだなあ!

 さて、時刻は3時、距離は9㎞でそろそろ引き返す頃合い、秋川を対岸に渡ってまた川沿いを辿ることとしよう。しかし久方ぶりの散歩で、これから10㎞ほどを歩けるや否や、うんにゃ、歩けなくなっても歩かねば。

 

 

 対岸に渡って、土手道を歩き、間違って河原の藪に入ってしまい、強引に、遮二無二に進んでこの間に、珍しい花を見つけてパチリ。名を知らぬけれど、さりとてネットなどで調べても瞬く間に忘れ去るから、もう調べない。花は調べるものじゃなく、愛でるものなり。

 



 川が増水して土手道の一部が通れないから、歩きやすい舗装道をゆく。ここにも田んぼが広がって、黄金波打つ中に、「〇〇小学校の田んぼ」と書いた札が見える。その脇におどけたカカシが立っている。

 ああ、いいなあ! と思ってしばらく眺める。たびまくらカカシにしばし慰められ、実って垂れた稲穂を刈り取る小学生の姿を想像してみた。毎日食べる主食ぐらいは、どういう風に作られるのかを知るのは、とてもいいことだ。

 

 

 空に薄雲が広がってきて、静かに夕暮れが迫ってくる。日が短くなったなあ、と感じる。これからもっと短くなって、そして寒くなってくるけれど、それも季節の単なる巡り、淡々とそしてゆっくりとその季節を楽しみたいと思う。

 

 

 秋川の左岸を抜け、多摩川の岸辺を伝って帰る。

 今日の歩行距離は、ちょうど20㎞。

 疲れて休み休み、家路をたどる。午後6時帰着。

 やはり、散歩はなかなかにいいものだ。