doniti 日誌

( おもしろき こともある世を おもしろく)

兆しを探せ

春は名のみの、風の・・・寒くない日。

兆しは如何に。

 

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 土手に上がると、春霞にけぶる河原は茫々とススキが連なり、とても春には程遠い景色なのだった。しかし油断はできない、季節の変わり目のその変化は、しばしば思いもよらぬ急ぎ足であり、ぼやぼやしていると季節に置いて行かれる。

 土手から見る山は遠いけれど、山が見える地域は、これでなかなかいいものだと思う。いつだったか都内の人が、山が見えるなんて羨ましいと言っていたが、目を上げてもビルばっかり、というのも味気ないと個人的にはそう感じる。

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 春浅しと言えど日差しは思いのほか強いのか、川面のさざ波がきらきらと陽を反射して、これから少しづつ水も温むのだろう。春の海はのたりのたり、春の小川はさらさら、そして春の川はきらきら。(こう見ると擬態語ばっかりだなあ)

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 まぎれなき兆しを河川敷の土手に見つけた。ヒメオドリコソウ。茎立もまだ小さくて5cmぐらい、葉っぱは大きいくせに花はほんのコメ粒のようなもの。あまりに小さくてどんな形をしているのかいつもよくわからない。

 ヒメじゃなく、もう少し大型のオドリコソウを見たことがあるが、頭の上に菅笠を乗っけたような形で、ふむ、なるほど名のとおりだと思った。だからヒメの方もそんな形なのだろうと、おおよそ推量がつく。早春、早々と顔を見せる草だ。

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 もう一つ早春の花、オオイヌノフグリも見つけた(にしてもこの名、なんとかならないかのかなぁ)。これもまた小さい花だが、葉っぱの上に突き出しているので分かりやすい。とは言え、近眼で乱視で、あまつさえ老眼という、めちゃくちゃなぶっくれ目玉では細かいところはわからない。

 で、こうして写真にしてみると、空色の花びらに放射状に並ぶ青い筋など、自然の造形に感心してしまう。真中の蕊のような白い構造も、いやなかなか繊細。これが一か所に群がって咲く状態は、広大な宇宙に煌めく青白い星々をいつも連想する。

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 土手の上に登る。余すところなく日に照らされて温かい。右手は河原だが、ここから水面は遠く残念ながら見えない。左手は運動公園らしく、草野球のグランドが向かい合わせに2面、サッカー場らしい広い芝の原、その先がテニスグランド。

 そのど真ん中を真っ直ぐ土手が伸びている。どこかでチャイムが鳴ったから、ここで休憩。どっかり大アグラで、おやつを食す。微風が耳を擦過していくが冷たくない。頭上の桜の枝は、小さいけれど蕾が膨らんできて、青空を背景に点々がよくわかる。

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 おやつの甘さが身にしみて旨い。土手下の道を時たま歩く人がいるが、至って静かだ。それにしても、と思う。こんな自由な身がありがたい。毎日、何かやってもいいし、何もしなくてもいい。どう過ごそうと文句も苦情も出ない。全方面からの自由。

 加えて、至ってものを考えないたちだから、こころの煩いもないし、悩み事もない。よしんばあったとしても、なにも好き好んで、煩いを引き受ける気はさらさらないから、ぶんぶん頭を振ってそれをどこかに払い飛ばし、無かったことにしてしまう。

 ただ一つ、コロナだけが癪の種。でもまあ、これは悩んでみても、どうなるものでもなし、なるようにしかならないだろうなァ。心配しても無駄、なら知らん顔するけど、コロナよ、オレの残り時間に手を出すんじゃない、邪魔するなヨ!

 

 

 閑話休題。土手の端まで行って、いったん河原に降りる。ふと見ると河原の灌木の枝に妙な実を見つけた。一見してグミの実かなと思ったけれど、グミが今ごろ実をつけるかなぁ、赤く熟すのは梅雨のころだゾ、なんぼ何でも早すぎるんじゃないかい。

 子供のころ、グミの実を食った記憶が蘇ってきた。はちきれんばかりに膨らんだ赤い実は、陽を受けてつやつや輝き、ながら旨そうに見えた。齧った。口がひん曲がるほど渋い、酸っぱい、中の種が大きく食うところがない。・・・散々な目にあった。だけど、ほんのわずか甘かったなぁ。

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 すぐに河原を抜けて、多摩川の支流の岸辺になった。左側は段丘涯で上の方に住宅が見える。段丘のどこかから水が染み出して、水たまりにクレソンらしい緑が鮮やか。この葉っぱを摘んで帰り、むしゃむしゃ食ったら、体がきれいになりそうだ。

 その水たまりの脇に、清々しい緑の葉っぱを着けた背丈ほどの灌木が生え、花芽のようなものを付けている。が、何だか分らない。芽を一つとって毟ってみたら、小さな蕾の塊のようなものが見えた。なにかの花だろうが、それは随分大きく咲くらしく思われる。が、なんだろう? 咲いている花を見た記憶がない。これも、ま、兆しかな。

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 支流の岸辺をぽこぽこだいぶ歩いて、小さな公園に来た。日当たりのいいベンチに腰を下ろして握り飯を食う。歩きのエネルギー補填は、どうやら握り飯がいいようだ。パンやおやつなどよりも、はっきり自覚するほど元気が回復する。

 歩き始めたばかりという可愛い女の子と、若い母親がやってきた。女の子はとことこ歩いてまずはブランコ、そして滑り台へ、母親が見守る中、今度はシーソー、次から次へ、じっとしていない。なんでも興味津々、なんにでも挑戦する。

 向こうのベンチに爺様と、そして足もとに犬。爺様は泰然自若、いっかな動かない。犬もベンチの脇に座り込んでこれも動かない。女の子と併せ、なんだか人の一生が目の前に展開しているような感じがした。

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 さて、この辺から帰ろうと思う。対岸に渡って岸辺の小道を下っていく。と、一面の茅野原を刈取ったちょっとした広場に突き当たった。向こうから銀髪のおばさんがやってきて、行き止まりみたいですよ、という。

 むむ、さっきの橋まで戻らねばならぬか、面倒だなあ。戻るということが嫌いである。バリバリと茅の切り株を踏みにじって進んでみたら、小川に囲まれ、進退万事休した。小川の川面まで2mほどの絶壁。

 え~い、やったれ! 絶壁のような川岸をバリバリガサガサ踏みしめ、枯れ草を頼りに降りた。浅い流れの中の石ころを踏みしめて、えいやっと、対岸にへばりつく。そこの土手を両手を突きながら登ってみたら畑のど真ん中。

 無茶、無理、無体は止めたはずであった。なんということであろうか、これっぽっちも止めていない。いかんなあ、この悪癖が抜けないと、とんでもない事態を招きかねないゾ。無残にけがをして人に迷惑をかけるゾ。分からんチンだなあ!

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 人んちの畑をこそこそと抜け出して河原の道に戻った。やれやれ、と蝋梅の写真を撮っていたら、なんと件の銀髪おばさんがひょっこり。どうしました? いやあ、あははは、その無理やり、アハハ、どうもどうも。

 何がどうもどうもなのか自分でも分からんけれど、おばさんは、なんて馬鹿な爺いだ、と思ったに違いない。何のことはない、おばさんと一緒にあの時戻っていれば、無茶せず済んだし、おばさんと話もできたかもしれないのに。

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 こちら側の岸辺は日当たりがいい。午後の陽をぽかぽか浴びながら、土手の枝垂れ桜の下を行く。桜の芽は勿論まだ硬いようだ。脇の畑に座り込んで、芋の皮をむいている老人がいる。穏やか陽は老人を包み込んで、暮れそうもない。

 枝垂れ桜の土手を抜けて今度は染井吉野の並木が続く。桜は、ヤマザクラが好ましいと思う。昔の上司が、退職したら故郷へ帰って、実家の前の街道に山桜を植えて街道を桜で覆いつくすのだ、と言っていたのを思い出す。

 上司の実家の山は、今どうなっているのだろう。薄いピンクのヤマザクラが、水色の空の下で街道を縁取っているだろうか。そしてあの上司は、花の下で満足げに眠っているのだろうか。もしそうなら、その街道を歩いてみたい気もする。

 

 

 土手の上にホトケノザが咲いていた。これも早春からの花だが、いつも不思議な花だなあ、と思う。茎や葉っぱに比べて、花がえらく複雑な形と艶やかな色を持っているのが不思議に思える。

 目がぶっくれているから子細が分からないが、花だけを見ると、とても美しい色と形をしている。ピンクの花びらのところどころに濃い紅色の斑点がついているのがいい。写真が下手でボケているが、いつの日か花をくっきりと拡大して写してみたい。

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 さてさて、ようやく陽も傾いてきた。

 今日はちょい歩きでがあって、16㎞。

 春は名のみだが、兆しは静かに忍び寄っているように見えた。

 

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