doniti 日誌

( おもしろき こともある世を おもしろく)

おやじ達の夏④

会津の親方の実家での、合宿生活を終了し帰京する日。

 

 

 

 第4日目

 

 というわけで、3回もお世話になった敷布やら枕カバーを洗濯機にぶち込んでから、相変わらずの貧しい朝飯を口に押し込み、荷物を整理し、戸締り厳重に、洗濯ものを乾燥所にぶら下げて、勇躍帰途につくこととなった。

 今日は薄曇りだけれど、雨は降りそうもない。思い返せば、会津での2日間、降ったりやんだり晴ればれしなかったが、かえってそれもまた良し。”月は隈なきをのみ見るものかは”であって、霧に煙る山、靄立ち込める川は陰影に富んで情緒あり。

 

 

 今回は東北道を走って帰還することとなり、帰りがけのついでの駄賃に、三春の街をちくと散歩し、勢い余って白河の関跡なども経巡ってみて、悠悠閑々、のんびりゆったりと帰ろうじゃないか、ということになった。

 そこでまず一般道を、標高差200mをせ~ので登りつめ、猪苗代湖畔に出た。湖のさざ波が白く光って妙に明るい。千円札肖像くんの生家は、お互いに尋ねたことがあるので右に通り過ぎ、磐梯山を背にしてぐるっと回りこむ。

 

 

 その辺りで親方が、右の道へ入るべし、と言って、「なんちゃら浜」とかいう湖岸の浜で休憩することにした。地元の人らしい数人が、砂浜で穏やかに和んでいる。運転担当の現場監督が水に手を入れて「冷めてぇちゃ」というから、泳ぐには寒いのだろう。

 揺蕩う湖水の正面に、立ち上る霧に頂上を隠した磐梯山のすそ野が、ゆったりと弧を描き、湖の向こう岸に連なる山々は、水色にけぶって白い雲を区切っている。これで会津ともお別れだな、もう来ることもないだろうな、と思う。

 

 

 会津よ南会津よ。霧湧き立つ、青き山よさらば。澄み切った、水の流れよさらば。

 茅葺屋根の、宿場よさらば。切り立つ崖の、出湯よさらば。

 村湯の、おやじ達よさらば。喜多方のラーメンよ、さらば。

 合宿生活よ、さらば。夜ごとの宴会よ、さらば。

 会津に別れを告げつつ考えてみれば、今回はおおむね満足できるものだった。人が大勢の観光地をできるだけ避け、山の中の寂しげな集落を回り、人影のない神社、仏閣を巡り、そういう静かなものが深く印象に残った。

 

 

 なんちゃら浜の後、郡山の市街地を通り抜け、山陰のくねくね道を三春の街へ入った。町役場に駐車して街中を歩いてみる。三春は山襞の街、なにもない。昼時になったので数少ない食堂に入る。ソースカツどんあり。念願だったソースカツどん。

 今回の日々は昼飯に恵まれなかった。特に昨日などは一日じゅうラーメンを食っていたような気がする。昼飯は実に重要な位置を占めていて、地元の郷土料理らしきものをひたすら求めるのだが、実は地元の店はやはりラーメン、唐揚げで商売、だからその土地のものなど探すのは、実は困難なのだった。

 

 

 三春には大きなお寺が3軒並んでいる、寺の街でもある。信仰心の篤い城下町だったのだろう。その3軒を巡り歩いて、三春の街さんぽ終了。なんだかなあ! という気もしないではないが、よそ者にも「こんにちは」ときちんと挨拶して通り過ぎる街の人々と、静かで落ち着いた街の中を、後日、きっと懐かしく思い出すような気がする。

 

 

 三春を出て、一般道を白河の関跡に向かった。が、これが結構遠かった。一般道だから信号もごっちゃりあって、なかなか時間がかかる。まあ、焦って帰ってみても、3人とも首を長くして待つ人はいない。せいぜい、なんだ帰ったの、位のことだろう。

 それにしても最近のカーナビゲーションは凄い。画面に青い一本の道が遥か地の果てまで伸びているだけ。しかし要所々々で、右に曲がれ、脇道へ入れ、とまるで痒い背中をかくような案内ぶり。なにも考えなくていい。

 その代わり、いまどこを走っているのか、地図が表示されないからトンと分からず、ナビの言うがまま、命じられるがまま、奴隷のように従っていて、間違いなし。なんだかコンピューターが進むにつれ、バカになっていくような気がした。

 

 

 ともあれ、白河の関跡に到着したのが夕方近かった。「白川関跡」と彫り込まれた石柱が建っていて、ここは白川藩主が、白川関跡だと断定したから、ここが関跡だ。みたいな説明板がある。一説では別の場所がほんとの関跡、とも言う。

 白川神社が薄暗い丘の中腹に鎮まっていた。どこを見ても誰もいないから、老杉に囲まれた神社はいささか薄気味が悪い。これが古戦場跡などであったら、薄寒い風が吹き抜けていったかもしれない。

 


  

 神社の脇道に芭蕉の碑があった。芭蕉の名調子が細かく刻まれている。

 

 

 芭蕉の名文をせめてもの土産にして、さあ、帰ろう。白河インターチェンジから高速に乗って、コロナが待つかもしれない東京へ。途中2カ所のサービスエリアで、連日運転の現場監督を労わりつつ休憩。

 その一つのサービスエリアで、あろうことか飯を食うと言う。腹減ってないよ、と言ったら、国分寺着は9時過ぎなるぞ、食っとけ。と親方に怒られて、うどんを食す。親方と現場監督はなんと! 石焼きビビンバだと!! 

 

 

 首都高速に入ってから、未曽有の渋滞が待っていた。5号線から中央高速分岐までとろとろ走っては止まり、分岐に来てその先を打ち眺むれば、車みっしり詰まり、梃子でも動かないときたもんだ。誰もが、もう嫌だと思い打ちひしがれた。

 現場監督、「ええいッ」と掛け声一丁、下道へ降りてしまった。確か笹塚あたりだったと思うが、それからあっちに曲がりこっちに折れて甲州街道に出た時は、ほっとした。もう一度高速に戻って、国分寺着、9時半ごろ。

 

 

 かくのごとくして、憐れなおやじ達の寂しい夏が過ぎた。

 いつ果ててしまうか予測のつかない、おやじ達の短い夏であった。

 しかし、後日相まみえたところでは、幾分か楽しかったようだった。