doniti 日誌

( おもしろき こともある世を おもしろく)

春やはる将軍様の城下町

 

 今月の「歩く会」は、皇居ならぬ「江戸城ぐるっと」。

 東京郊外に住んで長いけれど、江戸城をつぶさに意識したことがなかった。

 自分が住んでいるところの、ど真ん中ぐらいはちゃんと見ておかなくちゃあなあ。

 

 

                     

 

 実は、宮部みゆきさんが著書『平成お徒隊』で歩いたというコースは、その文章とともにいたく魅力的だった。それで「歩く会」会長に「ぜひ」と提案していたが、それが実現し、『平成お徒隊』の内容を頭の隅にして歩くことになった。

 

 

 集合は東京駅丸の内北口、大勢の人々がわらわらと行交っている。ぼんやりしているとどこかに撥ね飛ばされそうだし、取って食われそうな気もする。この、人がやたら多いということ、それだけでなんでか緊張する。

 まっすぐ前を見ていると、ともかく人がわんわんだから、参加者が揃うまでぼんやりと天井を見上げていた。ドームの天井が美しい。今まで何回かここを通り過ぎているが、ドームを見上げたのは初めてで、意外なところに意外な眺め。



 さて、江戸城に敬意を払って大手門から侵入。ぽかぽかの陽気だから一枚脱いでシャツ姿になった。西洋人が多い。体が大きいうえ、まだ春が始まったばかりなのに判で押したように皆半袖だから、やたら目に付く。彼らはどれほど暑がり屋なのか!  

                               (大手門入り口)

 大手門の枡形虎口は無暗に大きい。石垣もびしっと隙間なく積んであって、ともかく圧倒される。この、人をして驚かしめる、というのが将軍様の権力の象徴かもしれないが、江戸城は何もかも大きくて、そして広い。

                             (大手門の枡形虎口)

 

 二の丸に入る。百人番所という長が~~~~い平屋の木造建築、これは江戸時代のまま残っているらしい。見た感じ400年以上を経たものとは見えず、何度か修復もされたのだろう。植え込みの刈り込み方が、なんともお茶目。

                                    (百人番所と植え込み)
 

 その真向いの、石垣(中之門跡)を見て目をむいた。巨大な、畳一畳どころの騒ぎでない石が、びっしりと隙間なく積まれている。写真で見た南米のどこかの石積みを想い出した。江戸城のほかの石垣は案外ざっかけないのに、ここだけはまるで違う。

 この巨大な何十トンもありそうな石を何処からどうやって運んだのだろう。考えられそうなことは、伊豆半島あたりからやはり海に浮かべて、そろりそろりとやらかしたのだろうか。江戸時代の技術をともすれば馬鹿にするが、なんのなんの凄いことだと思う。

                                                                                                     (中之門の石垣)

 

 そこから二の丸の雑木林庭園を歩く。「各県の木」というのが植えられていた。ここで故郷の木をひっそりと偲ぶ人もあるのかナ。東京は銀杏、神奈川も銀杏だった。そういえば東京のいろんな場所に銀杏がある。落ち葉掃除はとんでもなく大変だろうが。 

 人々はゆるゆると歩く。温かい日差しが長閑に照って、そよ風が頬を撫でていく。真っ赤な木瓜の花や、明るい鮮やか緑色の土佐水木の花が咲いていた。ああ、まさしく春や春、という気分に浸る。

 

              

 

 

 いよいよ本丸に行く。狭い道が急坂となっていて本丸に登っている。その坂は「汐見坂」と書いてあった。むむ! ということは、この下の二人が歩いている辺りはかっての日比谷入江が湾入していた場所だったのか? この坂の下が海だったのか? 

                               (汐見坂から二の丸を見下ろす)

 

 『平成お徒隊』その他の記述よれば、江戸城の地は武蔵野台地の突端にあり、台地のすぐ下は海だったという。家康さんが移ってきた後、入江の海は埋め立てられたのだそうだが、この坂をみれば目の前が海、というのもあり得たのかも知れない。

 この地は昔「江戸郷」といって、意外や交通の要所だったらしく、また日比谷入江を介して海上交通とも繋がっていたという。だから、最初に秩父平氏の一族がこの地に館を築いたのだろう。しかし秩父平氏は分裂し、館は長らく放置され、そこへ太田道灌が後の本丸の場所に砦を造ったとされる。その後家康が入り、秀忠、家光の時代に江戸城は次第に整備されたらしい。

 本からお借りした江戸城付近の立体図を見ると、赤線囲みが江戸城で、青線囲みが江戸前の海、そして本丸直下まで日比谷入江が迫っているのがよくわかる。右画像もネットからお借りした道灌の砦の想像図だが、後の本丸と二の丸の形によく似ている。

 

   (江戸城付近立体図)                   (道灌の館想像図)

 

 さてその本丸に登ってみると、ど真ん中に運動場のような広い芝地が、のっそりと横たわっていた。天守台が北側の遥かに見えている。「この芝地に何があったんだろう」「大奥だよ、女人3千人」と物知りが教えてくれた「どひゃあ、見てみたかったなあ」

 ところどころにきれいな木瓜の花や琉球寒緋桜が咲いて、まるで公園の細道を歩いている気分、半そで姿の西洋人もゆったり歩いている。彼らはあまり群れないようで、二三人づつ、しかしながら自分の国のような顔で歩く。

 

 

 

 富士見櫓は本丸の南側の突端にあった。江戸時代の遺構として唯一残るもので、天守焼失後は代用天守として使われたそうだ。近寄って説明板を読むと何度か小さな補修はあったようだ。しかし思いっきりの逆光で、写真はだめだな、こりゃ!

                                    (逆光の富士見櫓)
 

 江戸城の見どころ、天守台に行く。遠めに見てもどうしてなかなか堂々たるもの、石垣の姿も凛々しい。高いところに上りたがるのはなんとかと猿だ、という通りもちろん上ってみた。本丸全体の見晴らしが抜群。

 しかし始めて登って思ったのは、登ってみれば、実にまあドってことがなかった。石垣の端っこに近づけないように柵があって、石垣の端っこから下を見下ろす、てなことが出来ない。単に平らな石敷の台上に過ぎない。 

                                      (天守台遠望)

 けれども、ここに寛永期(家光時代)の天守が乗っていたら、印象はまるで違ったものだったろう。深い緑の屋根瓦に白黒の壁、天を突く五層の雄姿、堂々として威厳に満ちている、と思うのだがどうだろうか。

 

                              (宮内庁の復元にかかる天守模型)

 

さあ、これで江戸城の中核部は概ね回った。次は北桔橋門を通って北の丸へ行く。北の丸は紛れなき、ただの公園である。公園内の細道をくねくねして、武道館の前の今どき風の喫茶室みたいなところで昼飯だそうだ。

 普通でない洒落たサンドイッチ、普通でない洒落たカレー風、そんな風なエサで大いに困るけれど、戸惑いながら椅子に腰かけてサンドイッチをあんぐりと食す。飯を食いに来たのに、やたら緊張するなあ、お上りさんだと見られたらどうしよう。

 

 

 これで、本丸、二の丸、北の丸の周遊を完了。なんでも家康はお城の整備よりも城下の普請を優先したようで、秀忠、家光と代を経て江戸城は整備されていったようだ。その整備には、天下普請といわれる諸大名の請負工事が多かったという。

 この領域よりも少し広いかと思われる西の丸には、今やんごとなきお方が住まっておられる。だから、その部分は今回立ち入りできない。立ち入れないが想像するに、びっしりと樹木に覆われているらしく思われる。この西の丸も含めて全て江戸城、広~~い。

 この広い地域が、今ではガランドウだが、江戸城の頃はみっちりと屋敷群が存在していたらしい。そんな有様を一度見て見たかったなあ、と思う。

 

 

 さてさて、いつまで経っても終わりが来ない、ちっとも埒が明かない。かくなる上は無理無体に埒を開けねばならない。ということで、田安門から表(内堀の外)に出た。これから大急ぎで堀端を時計と反対周りに巡ることにする。

 

 

 ちょっと歩くと千鳥ヶ淵。まだ桜はほころんでいないけれど、ライトアップの準備万端、さあ、いつでも咲くがよかろう、という構えである。お堀の青い水面が傾きかけた日を受けてきらきらと光った。

 

 

 ここでは戦没者墓苑に立ち寄った。今回の参加者全員が黙々と手を合わせる。説明書きによれば、海外で亡くなられた一般邦人、軍人軍属併せて240万が祀られているという。もしかすると今日の参加者の中にもその遺族となる人がいたかもしれない。

 

 

 堀端をずんずん歩く。千鳥ヶ淵公園を過ぎ、半蔵門を過ぎる。ひたすらわっせわっせと歩く。堀の幅が広くなって美しい土手が開けた。よく見ると土手に無数のフキノトウの花が咲いていた。だれも摘めないけれど、ああ、天ぷらにしたらなあ。

 

 

 桜田門まで来た。ここまで皆すこぶる元気、まあ、いろいろ見たけれど距離的には短いからまだエネルギーはそれほど損耗していないらしい。今回は春のちょこっと散歩にちょうどよかったかもしれない。こんなことが続きますように。

 

 

 桜田門を入って、皇居外苑。松の緑がことのほか美しい。よく手入れされた松というのは、見ていて心が落ち着くものだと気づいた。旧街道の古い家並みの中にそれを見ることもあったかもしれないが、すっかり忘れていた。

 

 

 せっかくだから、ってんで、二重橋をじっくりと眺めた。誰かが、東京だよおっかさん、といったら、うむ、いい歌だという者もいた。まだ時刻は3時、十分に陽が高い。二重橋を眺めながら皆でお喋りの華、いい一日だったなあ。

 

 

 東京駅から帰る悪おやじが5人。

 八重洲地下をあっちこっちうろちょろし、とある沖縄酒場。

 わあわあ言いながら飲んだくれて、しかしいつもより勘定高め。

 東京のど真ん中だから仕方ないか、と勇躍帰途についた。

 

 今日は短くて歩行距離約10㎞。それでも最後はくたびれたゾ。