doniti 日誌

( おもしろき こともある世を おもしろく)

品川宿あちらこちら

 

 冷たい北風は凪いだが底冷えがするような忘日、平成お徒隊品川駅に集合。

 

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 江戸四宿のうち、板橋、北千住の宿場を回ったからには、品川宿だって行かねばならぬ、ということで総勢14名の爺さん婆さんが寒さに縮かんで、よろよろと品川駅まで出てきた。ご苦労さまです。今回の企画及びガイドはⅠ氏。 

 

 

 

 「おらあ、こんだら大都会さ来るのは初めてだぁ、おっかなくって道も歩けねぇだ」全員お上りさんのような顔で歩き始める。大きな道路がごちゃごいちゃ交差する駅周辺を抜け、八ツ山橋を渡って旧東海道の道筋へ入って、ようやく少し落ち着いた。

 

 何しろ、北品川宿、南品川宿の右や左を経巡って、24か所もの見どころを尋ねてみようてぇわけで、とてもじゃないが、3つ、4つおろぬかないことには今日の間尺に合わない。ま、適当に案配していい加減にやっつけるとしよう、とⅠ氏と相談。

 

 

 

 「土蔵相模」という、なまこ壁の飯売旅籠跡は看板がぽつんとビルの前に立つだけだから、ふ~~んと言って通り過ぎた。「品川浦船だまり」は東京湾を埋めた残した跡、水路は今でも海につながっている。屋形船や釣船が数隻舫っている。

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 すぐそばの、小さな神社の狭い境内に「鯨塚」がある。寛政10年、天王洲の浅瀬に乗り上げた鯨を捕まえた記念だそうだ。その絵看板にはまた海苔を干す絵なども描かれており、ビルの立ち並ぶこの辺りも、紛れなき海だったことがよく分かる。

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  となれば、安藤広重品川宿の絵の、崖っぷちの東海道の、すぐ海側に傍立つ家々も、あながち江戸時代特有の誇張ばかりとは言えないようだ。この辺も目黒川の河口の砂州にできた街らしいから、鯨が寄せてきたり、船だまりができたり、というのも肯ける。 

 

 

 ちなみに、下の地図はネット上から拝借したもの。武蔵野台地が海近くまで迫っているのがよくわかる。台地と海との細い回廊のような場所に、東海道の江戸の宿駅が大変大きな顔をして座っていたのだなと、これを見て初めて知った。 

 品川区の地盤概要

 

 

 

  御殿山下砲台跡は、御殿山小学校の門前にわずかばかり残された変哲もない石垣、稚拙な品川灯台のレプリカがちょこんと乗っていた。ペリー来航にびっくらこいて、江川太郎左衛門指揮により6基の砲台を作ったが、ここは陸上に五稜形に作られた台場だった。

 

 

 

  旧東海道に出る。一方通行になっているので、両側の石畳歩道をのろのろ歩いてもひき逃げされる心配はないようだ。先頭集団は本陣跡に到着しているが、構わずゆるゆるのんびり歩く者もいて、ガイドはなかなか骨が折れる。 

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   本陣跡はやはり看板だけで、昔を偲ぶよすがもないが、奥の方が公園になっていて、この地が明治元年天皇東幸の際の行在所となったため、「聖蹟公園」という名がついている由。 公園の奥に、とてつもなく立派な行幸の石碑があった。

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  本陣跡近くに小さな寄木神社があり、境内でわいわい騒いでいたら、社務所から奥さんが出てきて扉を開けてくれた。本殿手前の扉が土蔵造りになっていて、伊豆長八の鏝絵が、幽霊の如くぼう~と霞んで現れた。気味が悪いではないか!

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 そこから京急線を越えて西へ向かい品川神社へ行く。社殿は台地の上にあり、鳥居の向こうに階段が続く。鳥居の柱に竜が巻き付いている。初めて見たが由緒を忍ばせる。鎌倉初期の頼朝による創始らしい。お参りの若い女性人が階段を上がっていく。

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 赤い丹塗りの社殿に咲き始めた紅梅が調和して美しい。境内には真っ赤な木瓜が満開になっていて、ここだけはもう春のようだ。しかし春が来たらきたで、そわそわとこころ急くのだから、人のというもの、厄介なしろもの。

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  道は目黒川の岸辺に出て、これでまた旧東海道へ戻る。戻る手前に荏原神社というのがあり、道脇の緋寒桜(たぶん?)が満開だった。そこだけが、ぱっと華やかで道行く人も一様にスマートフォンを頭上にかざしていた。

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 品川橋を渡って、ここから南品川宿に入る。ここまで、意外と古い神社やお寺が残されているので少し驚いている。来る前は、品川宿といっても大都会のど真ん中なんだから、なあ~~んにも残っちゃぁいめぇ、と思っていたのだが、随分いろいろある。

 

 我らが若者と違うところは、古いものが残されていると喜ぶ、という習性。大都会の、がんがらがんの、ビルの谷間だらけを歩いていると頭痛がしてくる(自分だけかナ)。こころを安寧せしむるには是非とも田舎が必要なのだ。

 

 青物横丁付近で昼飯(ランチにあらず)。夜は居酒屋という店だが、今はやりの昼だって稼ぐぞ、で昼飯あり。飯を一緒に食う、というのは人を仲良くさせる。今日初めての人もたちまち溶け込んで、わいわいがやがや。

 

 

 昼を終了して、近くの品川寺に立ち寄る。入り口を入ったら、どでかい地蔵さんが座っていた。江戸六地蔵のうちの一つで、なんと、かっては鍍金してあったそうだ。そのころの、ぴっかぴっかの地蔵さんを見てみたかった、と一同。

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 その後、海雲寺、海晏寺に立ち寄ったが省略(お寺ばっかり見てもなあ)。しばらくは旧東海道をゆるゆると進む。両脇のビルの背が少し低くなって、なんとなく鄙びた感じに見える。といってもやはり大都会に違いはない。

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  さて、最後は鈴ヶ森刑場跡。旧東海道第一京浜と交わる三角地でとても狭い。「南無妙法蓮華経」の大石碑と「鈴ヶ森刑場受刑者之墓」の石碑。お線香の煙がうっすらと空に昇ってる。首洗い井戸なるものもあり。

 

 当時の規模は、間口74m、奥行16mほどだったようだが、今は第一京浜の車ぶんぶんだけで往時を偲ぶことはできない。北千住の小塚っ原は、それなりに厳粛な気分にさせられたが、ここはお線香の香りに、しばし佇むばかり。

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 この後、品川歴史館で大森貝塚の展示を見、大森貝塚遺跡庭園を訪れる予定ではあったが、Ⅰ氏がみんなの情況を見て取りやめた。ま、別な機会に個人的に、じっくりゆっくりと 観る方がいいかもしれない。

 

 

 かくの如くにして、大森駅前は安居酒屋の焼酎と焼き鳥と

 とりとめ無き談笑の、早春の宵は過ぎたのであります。

 歩行距離は約10キロ程度なる由。