doniti 日誌

( おもしろき こともある世を おもしろく)

遥か出雲へ⑤ (鳥取・松江)

 

 

丹後半島欠食の朝

 丹後半島の山の宿、夕飯なしの欠食爺い達が目覚めた。

 宿の庭に出てみると、日本海だろうか、足元の先は茫々とした広がり。しかし朝霧に閉じ込められて、海面も水平線もみえず、もあもあした塊が、しどけなく広がっているばかりだが、もしかしたらこの宿は、眺めが大変にいい場所にあるのかもしれない。

 ここは丹後半島スイス村という。各地にスイス村があるようだが、どこがスイスなのだろう。ここには、スイスを思い起こさせるような建物は見当たらない。宿は楕円形のビルだし、他には物置小屋らしき建物だけ、ただ、牧場やスキー場があるようなので、まあ、これがスイスなのか、どうなのか?

 

 山を下っていく。おっと、また鹿だ! 道路の上に5,6頭、「なんだオメエ、誰だ? 」という顔つきで、じっとこっちを見ている。何十秒か、「わツ、やべぇ、逃げろっ」と言って、全員横っ飛びに林に消えた。

 丹後半島は鹿がごってり、という気がしてきた。熊なんかも、のっそりといるのかもしれない。動物一杯で慶賀すべきや。下って京丹後市、コンビニを見つけてやっと朝飯にありつく。やれやれだが、この欠食の日が強く印象に残った。

 

 

久美浜湾で途方に暮れて

 ここまで来ると、もう何県なのか、丹後なのか丹波なのか何なのか分からなくなった。土地勘がないというやつ、でもまあ、走っていく分には支障はない。近くの久美浜湾の展望がステキだとうのだが、ナビは、知らんもんね、と言っている。

 カブトヤマ展望公園という看板があったので、ここかなと思い傍らの小高い山へ突入、しかし案内板も何もない。不安になってくる、ここでほんとにいいのか? 道脇にちょっとしたスペースがあって、ぽつんと人がいた。

 聞いてみると、この先で車はストップ、なにやら階段が続いてしんどそう、という。要するに彼もよく知らない、知らない同志が首をひねってみても一向に埒はあかない。その場所から、変哲もない眺めを写して、さよならした。

 

 

 

鳥取砂丘はおまけ

 そこからかなり長いこと走った。餘部鉄橋もおろ抜いた。ついでに鳥取砂丘もぶっ飛ばすつもりで、ひたすら米子半島へと急いだが、砂丘だけはせっかく来たのだからという意見もあり、立ち寄ってみた。

 小高い丘の上に上るとレストハウスみたいなのがあり、その裏庭から雑木林を隔てて砂丘が見える。その奥にはかない色の日本海、西に草が生えた砂丘(?)、東側に砂だけの丘を望見する。その砂の丘を人がウンコラセと登っていくのが分かる。

 ベンチにおばさんがいたので話してみたら、この場所が好きで旦那様とよく来るのだそうだ。鳥取市にお住まいだというから近い。砂丘の眺めが好きだというのは、郷土愛なのだろうか、なんだかしんみりしてきた。

 

 

 

 さあ、もうぐずぐずしてはいられない、是が非でも陽があるうちに米子半島まで行かねばならぬ。鳥取県の東の端っこから西の端まで、いったいどれほどの時間がかかるのだろう。この地域の有料道路は今盛んに作っている最中らしく、途切れ途切れで国道になったり、専用道路になったりした。そのためか、通行料は無料である。

 そんな道を走り、いい加減飽きてきたころ、周りから山が消えて砂地の土地になった。きれいな松林が道脇を縁取っている。来た! 来た! 米子半島であるらしかった。見えないけれど左手が弓ヶ浜だろうか、松の緑が美しい。

 

 

来たぞ、水木しげるロード

 半島の突端近くまで行って、水木しげる記念館を探す。小さな、しかし背筋の伸びた、とても上品なおばあさんが歩いていたので道を聞くと、記念館は今修復中で休館とのこと、駐車するなら団子屋さんの脇にあり、たった500円とのこと。

 駐車して水木しげるロードを歩く。今しがた雨が降ったのだろうか、水たまりが残っている。観光客らしき姿は見当たらない。水木しげるは、最初そのマンガは好きでなかったが、齢寄りになってから、水木しげる本人の飄々淡々とした生き方に興味が湧き、それで読むようになった。今ではとても偉い人だったんだなあと思う。

 

 

 ロードに人影はごく少ない。ここまで来たら、もはや焦る必要がないので、のんびりと、ゆったりと歩いた。石畳の道はきれいに掃き清められ、塵も紙屑も一つとして落ちていない。歩道との間に、様々な妖怪のオブジェが設置してあり、おもしろい。

 

 

  

 凡そ1㎞ほどの長さのロードには、けばけばしい看板も宣伝もない。両脇に並ぶ店舗も原色を塗りたくったような汚らしい店は見当たらない。しっとりと落ち着いていて、これはとてもいい観光地だなあ、と思った。水木ファンだからそう思うのかナ。

 ここの記念館やロードを作るにあたっては、水木しげるの意向も預かって力があったと聞く。この街の落ち着いた佇まいや雰囲気も、この先生の心情を反映したものであるのかもしれない。やっぱり偉い人であったなあ。

 

 

 

 

境港の昼飯

 水木しげるロードで随分のんびりして、忘れていた昼飯を想い出した。観光案内所まで行って「わしら何を食ったらええんだか? 」と聞いたら、水産物直売所を教えてくれたので、勇躍として境水道の海っぱたまで行った。

 大きな施設で、中には鮮魚などが並んでいたが、生魚をバリバリ頭から食うわけにもいかず、付属の海鮮食堂に入ったら、案の定だった。薄っぺらな切り身が5,6枚丼の底の方でぐったりしており、要するに旨くもなんともなかった。またやられたのである。

 

 

美保関の明るい海

 さて思い直して、美保関に行くことにした。境港の陸地から中海につながる境水道を橋で渡る。向こうの島根半島の陸地まで指呼の間であるが、向こうは海からすぐ山が立ち上がっていて、渡ってから山に突っ込んでぐるっと回って海沿いの道に出る。

 海っぱたの狭い道を東へと進む。左手はすぐ海、右手はすぐ山、その中を曲がりくねって、ときおり民家が5,6軒現れ、その庭のコスモスが秋の柔らかい日差しに光っている。ああ、いいなあと思う。できればずっと死ぬまで、この道を走っていたい。

 

 

美保神社はデカイ

 美保神社近くまで行って、海っぷちの小さな駐車場に車を入れる。山の麓の木立の中に美保神社は鎮まっていた。石の鳥居をくぐって広い階段を上る。境内は森閑としてご夫婦一組が拝殿で手を合わせていた。

 境内は平地がないから狭いけれど建物がデカイ。その建物の木材は古さびて、いかにも長い歴史を感じさせる。しかし不思議なことに、拝殿に壁がなくガランドウである。拝殿の床は石敷きであるが、雨が降り込んだら濡れるだろう、と余計な心配までした。その代わりと言ってはなんだが、壁がないから当然拝殿がすごく明るい。天井に照明設備などは見当たらない。

 


 鳥居の脇に不思議な路地がある。路面が青い石でたたまれ、民家がくっつくように並んでいる。NHKの番組で見た記憶がある。一番手前の向かって右手、この家のご当主が美保神社の神官として様々な神事を執り行っていた。

 この路地に並ぶ家々が交代で神官を務めるのか、はたまた一子相伝、神官の家がずっと昔から決まっているのか、その辺のことは自慢じゃないが忘れてしまったけれど、神事にはなかなか厳しい決まりがあるらしく、大変なんだなあと思ったことは覚えている。

 

 

 

 お参りを終えて海岸っぷちに出て暫時休憩。突堤に囲まれた日本海はガラス板のように凪いで、傾きかけた陽をきらきらと反射している。突堤のずっと先の、半分雲に隠れた山は、あれは大山だろうか。眺めていて、ああ、旅はもうほぼ終わったナと思った。

 

 

 

 

松江城現存天守

 美保関から引き返して島根半島の南岸を松江に向かう。中海の海岸線を走った。遠く日御碕の辺に太陽が沈んでいくらしい。山間から抜け出して松江の街に入った。整然と区画された街路を松江城を目指した。松江は静かなとてもいい街のような印象だった。

 松江城は全国12ある現存天守のひとつなのだそうだ。それを見て今日は終わりにしようと思う。到着して早速天守に行く。本丸とみられる広場の真ん中にぽつんと天守のみが聳えていた。なかなかにカッコいい天守で、そんなに古くも見えない。

 ただ横手に回ってみると、やはり破風を覆う板塀がささくれ立ち、それ相当の古さがうかがい知れる。完成は1611年というからもう411歳ということになるのかあ、あとどのくらい生きながらえることが出来るのだろうか。ガンバレ松江城

 

 

 

 暮れていく松江の街をゆるゆると通り過ぎて、今夜の宿に向かう。高いビルも少なく、車も人も多くないし、喧騒感がない。「松江大橋を渡る下駄の音が、夜の松江では聞くことが出来る」とは昔の話だろうけれど、とても落ち着いた街なのだと感じる。

 こういう街は消えて無くならないでほしい、と切に思う。日本のちょっと大きな街へ行くとどこでも、ケバケバのドンガラカッタの大喧騒なのだが、こういう落ち着いた街が残っているのは、大変ありがたい・・・とは、通過者の勝手な言い分だが・・・

 

 

 さて、これでもう今日は宿に入る。宿は松江駅の近くにある。

 飲み屋街がありそうである。夜の街を彷徨しチクと一杯致そうかと思う。

 かの有名な、松平不昧公のおひざ元、きっと旨いものがあるに違いない。