doniti 日誌

( おもしろき こともある世を おもしろく)

遥か出雲へ⑥ (出雲)

 

 

松江の夜、寂々

 ♬関の五本松 一本伐りゃ 四本~♬ と綺麗なおねいさんが歌う。「ちょっと待って貰わねばならん」と百閒が口を出す。「五つあるものを一本伐れば当然四本だ、算術上決まっている、言うまでもない。」 ♬あとは伐られぬ、夫婦松~♬ 「おかしな話じゃないか、四本が二夫婦だというのかい、そうとばかりは限らんぞ、野郎松ばかりが四本突っ立っているかもしれないし、かみさん松が四本かもしれない、一本だけが雄松で一夫多妻、逆に一妻多夫かも知れん、それにさ、構わないから四本とも伐っちまえ」・・・こんなだから百閒は菅田庵(不昧公の茶室)の狐に取付かれるのだナ。

 

 松江の夜を百閒はかくの如くにして、綺麗なおねいさんに囲まれ、優雅にしにして閑雅なる宍道湖のご馳走、スズキの奉書、モロゲ、シジミなどなどを食べ、かつ飲んだらしい。が、貧乏なる年金オヤジは、第一に綺麗なおねいさんとは無縁であり、第二に御馳走もまた遠くに逃げ去って、帰ってこない。

 止む得なければ、薄闇が降りた松江の居酒屋をさ迷う。このことはすでに書いたので繰り返さないが、まずなによりも出雲蕎麦を食さねばならぬと、いそいそとして食ってみたが、なんだか蕎麦がふにゃッとしている。きりっと角が立ってほしい味であった。

 居酒屋を探しながら三軒ばかりはしごした。いずれも地酒が大変結構だし、魚が目をむくほど旨い。しかしながら、如何なる悪魔のいたずらであろうか、百閒が食った「モロゲ」を「ドロメ」と記憶しており、どこの居酒屋でも「ドロメは知りませんなあ」と言われてしまった。ドロメは高知であった。松江と高知ではだいぶん遠い。

 

 

出雲は遠く雲の中

 翌朝は曇り空、松江大橋を渡り返すとき、宍道湖がちらりと見えた。朝の爽やかな湖面に小舟が十艘ほど浮かんでいる。そのとき、「あっ! シジミを食うのを忘れた! 」と思わず大声で叫んでしまった。一生悔いを残す不覚である。

 宍道湖の北縁の道を出雲へ向かう。右手に緑濃い島根半島が累々とつながり、左手は宍道湖だが湖面は見えない。一畑電鉄の線路が見え隠れしながら道に寄り添っている。曇り空の下、家数の少ない長閑な道をゆっくり走った。遠くまで来た感が身に沁みる。

 

 

 

おお! 出雲大社

 さて出雲大社である。同行の二人は、大社にお参りすることがこの旅の大きな目的だったようだ。だが、出雲と言えばオオクニヌシがまず思い浮かぶ。彼は可哀想な神であると思う。何しろ豊葦原中国を後から来た奴にぶん取られてしまったのだから。

 その憐れな神を出雲大社で偲びたい、と思う。さりながら、この神様はどこか偉そうなところもある。何しろ名前(異名)をごっちゃりと持っているし、日本全国の神様を10月に招集して会議などするし、まるで帝王であるが如くでもある。

 日本で一番エライのか、エラカッタのか、そのようなカミと言われる人物が実在したのかどうか、神話だからと一概に無視するべきものでもないような気がするが、なんだか全体的に、もあもあしていてよくわからない。ここに来たからと言ってそれが分かるわけでもないけれど、まあ、何か感じたい。

 

 

 

 

 出雲大社の駐車場に車を入れて、まずは金銅の鳥居から入ることにした。この鳥居の前は門前町のお店が並び、そのずっと先にコンクリートの大鳥居が聳えている。門前町のたたずまいも魅力的だったが、まずは大社の拝殿に行くことにする。

 

 

 境内に足を踏み入れると、まずその広いことに目をむく。拝殿にたどり着くまでに日が暮れるんじゃないかと思った(大げさです)。中央の参道の両脇に並ぶ若い松の緑が清々しい。早く拝殿まで、と心急く。

 拝殿は、特に大しめ縄のところは、思ったよりも小さく感じた。なにしろあの相撲取りを捻じり合わせたようなしめ縄の迫力が、社殿の何もかもが巨大であると思わせるためかもしれない。参拝者は、ぽつりぽつり目に付く程度で、境内は至って静かだ。

 


 拝殿の前に立って、さすがにここではお賽銭を出して手を合わせた。オオクニヌシへの敬意であるのかどうか解らないけれど、これでひとまずバチは当たらないだろうと思う。ここには無慮無数の社殿があるらしいが、本殿だけ見ることにした。

 本殿は建物に隠れて全体を見ることはできないが。屋根周りや千木の色どりがなんだか奥ゆかしく感じられた。神社というのはおおよそ人をして黙させるらしい。神韻縹緲というのか、辺りがし~んと静まりかえってしまう。

 


 なにはともあれ、出雲まで来ちゃったのだなあ、と感慨深い。冗談みたいな発想からついつい本気になって、そして実際に行動に移してしまった。思えば遠くまで来ちゃったなあ、とつくづく思う。もう隣は本州の果て、山口県だ。
 他人は、なんという馬鹿なことをしたもんだ、と誹るだろう。本人もそう思うのだから、これはもう間違いない。しかしながら、バカが馬鹿なことをするのは理にかなっているとも言える。ただし、同行二人は決してバカではない。

 

 

出雲国造家の不可思議

 出雲大社を後にして県立古代出雲歴史博物館を覗きに行く。途中に「出雲国造・北島家・出雲教」と看板のある大きな建物があった。はて、国造家は確か「千家」とか言ったと思ったが、と不思議に思い大きな門からちらっと中を覗いてみた。

 なにやらここも、大きな神社らしき建物が広い庭に点在していた。それに出雲教とは何ぞや、新興宗教か? 触らぬ神に祟りなし、とそのまま博物館方面に歩いた。帰宅後調べると、なんと! 国造の「千家」家は、大社敷地を挟んだ西側にでんと構えているではないか。またしても見落としである。この旅はなんだかなあ、の連続である。

 ネットによれば、出雲国造家はその昔、二つに分裂し両家で交代に国造の務めを果たしていたが、明治になり千家さんの方を正式な国造とし、北島家の方は「出雲教」を主宰して千家氏とは別れた、とある。

 

 

島根県立・古代出雲歴史博物館

 博物館は真新しい大きな建物で、女性がきびきびと働いている。ロビーのような広いスペースに、近年発掘されたという巨大柱の根っこが、ガラスケースに囲まれて鎮座していた。径1mはあろうかという巨木を三本束ねて一本の柱としたようだ。

 想像されるところでは、このぶっとい柱の上46mの天空に本殿を設え、そこに上るため、長~~く高々と階段を設置し、そういう宮殿を造営したらしい。その何十分の一かの模型が展示してあった。う~~む、この根っこを目にすれば、これはぶっ魂消る。

 

                         (この画像は博物館ホームページよりお借りした)

 

 ぶっ魂消てばかりもいられないので、館内を回ってみた。プロジェクションマッピングで、くにびき神話の映像を映していた。なんと、遠く新羅から余った土地を「国来、くにこ」と言いながら引っ張って来て、これが杵築の岬となった。

 続いて、隠岐の島から狭田の国や闇見の国を、最後に能登半島から三穂(美保)の国を、それぞれ、そろりそろりと引いてきて繋ぎ合わせ、めでたく島根半島が出来上がった、とされている。凄い話だけれど、これ、どうみてもかっぱらいだよなあ。

 

 次の展示場では、一瞬目がくらんだ。銅剣がずらずらと何百本も展示されている。複製品も共に並べてあるようだが、荒神谷遺跡などから多数の銅剣が発掘されているというから、こんな按配になるのだろうか。迫力十分。

 次には、銅鐸である。大型のそれが部屋いっぱいに並んでいる。1個だけでも「すげえ」、と思うが無慮数十個。しかしこれは見るだに不思議なもの、いったいこれで古代人は何をしたのだろう。ともかくひっぱたいて大音響を出したのは確かだろうけれど。

 

 

 

 出雲平野ー中国山地北縁の丘陵地と、東西に延びる島根半島の間の低地ーは考えていたよりずっと広い。まっ平な畑地がどこまでも広がっているように感じた。なるほど、斐伊川が北の山地から流した土砂が、とんでもない量なのだ、ということが実感として迫る。

 この地方の古墳は、四隅突出型であり、前方後円墳とはまるで違う形だというが、この平野あたりを中心に分布していたのだろうか。いずれにしろ、この出雲の地域にはなにかあるゾ。日本の古代において、何か大きな出来事があったに違いない。

 不勉強だから、そのことについては、もわもわしたままだが、もしかするとこの地方には、汲みせど尽きぬ謎が埋没しているかに思う。記紀風土記の神話を分解して読み解いて、実際はどうだったのか庶民にも解るように説明してほしい、とつくづく思う。

 

 

 

 さて、来たからには、帰らねばならない。来て来っぱなしというのも、どこか魅力があるが、とりあえず帰らねば飯が食えなし、野宿の露に濡れて風邪をひく。金はないと言えど、遊び半分にぶっ叩かれてしまうかも知れない。帰ろう。

 

 

 帰るについては足立美術館に立ち寄りたい。

 拝観料がいささか高額だと言えど、

 もう生涯この地に来ることはないだろうから、

 そこは我慢して考えないことにする。