doniti 日誌

( おもしろき こともある世を おもしろく)

支流の春

多摩川の小さな支流。

そこに美しい景色があったなあ、との朧な記憶。

 

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 世間はいつの間にか新緑の季節、ときの移ろいはほんとに早い。浅黄色の柳の芽は、ときの移ろいを考える風でもなく、風の揺らぎに身を任せ日がな一日揺れている。河川敷の公園では、桜が霞のように棚引いて、しかしもう蕊が目立つ。

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 橋を渡って本流から支流の岸辺へ。今日は少年たちの野球の日であるらしい。土手にどっかりと座り込んで、活発な少年たちをみるともなく眺めていたら、オヤジさんがやってきた。かってに話しかけて一人でしゃべっている。

 いやあ、いい天気だなや、孫の野球の応援で武蔵村山から来ただが、孫はどこにいるだか、ちっちゃくって分かんねぇ、旦那はどっからだね。おらあ、国は磐城だがよ、もう帰れねぇやね、こっちに住んじまったら、もうあんなとこさ帰れねぇ。

 カラ元気で喋り捲っているけれど、原発事故でも、故郷へ帰りたいんだろうなと思った。故郷の春はもっと美しいのだろう。一方的にしゃべって、そしてどこかに立ち去ったが、胸の中に温かいものが残った。いいオヤジだった。

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 土手道を辿って支流の向こう岸へ渡る。岸辺の細道はソメイヨシノの並木が、雲が棚引くが如く霞んで、散り始めているとはいえ、まだ鑑賞に堪える。岸辺の石段に座っていると、花びらが音もなく風に流されていく。人とほとんど会わない。

 目くるめくような花を、鼻息を荒くして観るよりも、いまのこの時間が貴重なのかも知れないナ、と思った。こうして、ただせせらぎの音と風に舞う花びらと、それを何もしないでぼう~っと眺めるだけ、この時間がこの上なくいいのかもしれない。

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 とは言え、日がな一日ここに座って居られたもんじゃない、それほどの修行は出来ていない。上流に歩くと、枝垂れ桜がちょうど満開、薄紅色の霞が続いている。畑を耕す人がいて、5,6人、おばさん女子が賑やかにやってきた。 

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 小さな公園があって、そこで昼飯。幼児を連れた家族が4,5組、芽ばえたばかりの若草の上を縦横無尽に走り回る子供たち、若いお母さんが追いかけまわす。古風な橋の向こう岸のあの真っ白い花は、大島桜だろうか、名を知らぬ悲しさ。

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 今度は、花桃が土手の細道に連続していた。ぽってりと大ぶりの、白と赤が入り混じった妖艶な花が、あっちにもこっちにも。見ごたえ、迫力は十分だが、よく考えてみると、それだけに少しうるさいかも知れないナ、と思う。

 日本人得意の、わび、さび、からはだいぶ遠いかもしれない。だから、花だけを見るのでなく、風景と一体的に見れば、うるささも中くらいなり、と感じられるようだ。ま、花も風景も、どう見ようがその人の勝手次第、ということだな。

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 傍にカフェなるものがあって、女性ばかりがわらわらとデッキのテーブルでランチなるものを、お召し上がりになっていた。もの喰う人々は、もの食う女性なり。なんだか恐ろしい光景を目にしてしまった、と感じたが勿論、思い違いである。

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 川沿いの道が途絶えて、いったん街に中へ入る。どの家にも、どの家にも、例外なくミツバツツジが咲いている。ちょうど旬らしく、とても美しい。この花をどこかから、かっぱらってきて家に植えたい、と年来の熱望であるが、まだ実現していない。

 秩父にこの花が群落している岩山がある。あんなにあるんだから、かっぱらってきてもよさそうだが、どうかっぱらえばいいのか、それが分からない。悲しいかな、知恵の無いものは泥棒さえ出来かねる。

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 お寺に入ってみた。観音堂が花に囲まれ、化粧姿になっていた。小学生の女の子とその両親が写真撮影中、7歳の子だろうか。見事な枝垂れ桜が、逆光を写して輝くように枝を揺らす。南無観世音、このかけがえのないひと時を。

 この場所で、伊豆大島出身のお婆さんと話したことを、遠い記憶が浮かび上がらせてきた。お婆さんは若き日々、椿油を船で運んで背負って、東京を行商していた、と語った。そのとき、そういう青春もあるのか、と思ったことを想い出した。

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 記憶にある「美しい風景」の場所にたどり着いた。人の記憶は、、、もとい、わが記憶は実にまあ、いいかげんなもので、大したものでなくても、とんでもなく素晴らしいように、勝手に記憶として残す。我が脳みその癖らしい。

 それだから、いささか危ぶんでここまで来たが、やはりここは美しい風景だな、と改めて思った。人それぞれだろうから、なんだこんなもん! かもしれないけれど、自分で満足してれば、まあ、それでいいや。

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 こんな素晴らしい(と自分では思える)景観なのに、人がほとんどいない。犬の散歩の女子、畑を耕す人ぐらいなものなのだ。

 

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 山に若葉のもやもやが湧き出すようになってきた。またぞろ、こころが浮き立つ。しかしもう、落ち着かねばならない。落ち着いて地道に、畑を耕や、、、いや違った、地道に生活しなくてはならない。 

 それが、爺いのあるべき姿である。則を越えてはならない。静かでくぐもった毎日こそ似つかわしいというものである。・・・ところで、若葉は多摩丘陵が、ことのほかきれいだという。もそもそと、行ってみなければなるまい。

 

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 満足して、日の出町役場を経由して駅へ。

 帰宅はまだ明るい5時、総距離:17㎞。

 今度は、また多摩丘陵へ行くぞお!