doniti 日誌

( おもしろき こともある世を おもしろく)

ウソついた予報

3か月ぶりの歩く会。参加者15名。

 

 

 

 台風一過で、予報は晴れる筈が一日中曇りに変わって、それがなんと、歩き出す頃は雨に変わった。しとしと霧のような雨だが、それでも濡れる。なんだよ~、天気予報、降るなんて聞いてないぞ~。でもまあ、止むを得なければ仕方がない。

 今回は「立川崖線を探せ」シリーズの3回目、立川崖線はここから分倍河原駅、府中本町駅を通って府中競馬場の北側へ抜けている。崖線の上にある南武線西府駅下車で崖線下の多摩川沖積地に降りた。

 今回午前中は崖線を外れて南下し、幾つもの水路が交差する緑地帯を歩くことにしている。この地帯がどうも江戸時代の府中用水路の跡地らしいのだ。江戸はコメがほぼできない。武蔵野台地に水がないから、限られた河川沖積地が唯一の田んぼ、そこでこの地帯に用水路ができた。その府中用水路の面影を偲びに行く。

 

 西府駅から沖積地に降りたところにNECの大きな工場がある。この中に一里塚があると言うので、守衛さんにお願いして見せてもらった。なんとまあ、守衛さんの護衛付きである。恐れ多い。

 門から200mほどの奥に榎が亭々と聳え、根元に石碑、「甲州道中一里塚」と刻んである。昔の甲州街道はここを通っていたらしく、そのころの塚(今は小さな土盛り)が残されたのだろう。これを壊すと祟りが・・と将門の首塚みたいなことをいう者がいた。

 

 

 工場を出て新田緑道に入る。府中用水路の一部だと思う。水路がさらさらと音を立て、誰もいない道が続いている。葉っぱや草がしっとりと濡れ、瑞々しいのだけれど、辺りの景色がぼんやりと霞んでしまい、面白くない。

 暗い木立の中に「分倍河原古戦場碑」がぬっと現れた。新田義貞鎌倉幕府軍が戦ったという古戦場で、敗れた幕府軍が鎌倉に退却、攻め上った義貞が鎌倉幕府を倒した。当時、この地域は荒地が広がっていたのだろうなあ、と変な感想。

 この当時の戦(いくさ)の情況を妄想してみる。なかなかイメージが湧かない。何十万人という軍勢の数はどうも眉唾、でもこのような戦で現実に何百人かは死んだのだろう。医療なぞない時代、小さな切り傷も致命傷だっただろうなあ。

 

 

 進んでいくと小さな池があって、ほとりに釣竿を持った少年のブロンズが立っている。半ズボンに麦わら帽子、少年の夏。人生で一番輝いていた時。池の向こうに巨大な入道雲が光っていればよかったのだけれど、まだ雨がそぼ降る。

 休憩するべきベンチも濡れている。立ったまましばし休憩。今日がもし晴れたとしたら、昨日の雨に洗われた緑がことのほかきれいだったろうと思うが、仕方がない。いま、季節は緑が最後の輝きを残している時期なのかもしれない。

 

 

 下川原緑道に突き当たった。この緑道は明治43年に敷設された鉄道の跡地、多摩川の砂利を採取して、東京が建設された。国分寺と下川原駅とを結び、のちには通勤者や競馬場の客をも運んだという。

 多摩川近くには、砂利を運ぶために作られた鉄道が多かったが、砂利電変じて邪魔電となり次々廃止されたようだ。しかし東京の建設に多大な貢献をしたはずだ。思えば、東京は江戸以来、建設土木がついぞ絶えたことがなかったのではないか。

 それはそうと、このあたりで視界が大きく広がり、辛うじて住宅の侵略に耐えている畑が眼前に広がってきた。やはり江戸時代の府中用水の名残なのだろうなあ。このあたり一帯に、田んぼや畑が茫々と広がっている光景を見てみたかった。

 

 

 さて、「府中郷土の森博物館」に到着した。樹木茂る大きな公園の中に博物館が併設されている、が、博物館は改修中で閉館。濡れない場所を探して、各自好きな場所で昼飯。なんといってもこの時間が一番の楽しみ、たとえコンビニおにぎりだけであっても。

 大きなパラソルの下、二人で握り飯を齧る。隣のパラソルは女性4人の塊で、ほどなく、いつも簡易ドリップコーヒー持参の彼女がカフェを開店、当然のような顔をして混ぜてもらう。馥郁と熱いコーヒーが旨い。

 ゆっくりとコーヒーを啜り、ゆったりと寛ぐ。きつい歩きではないが、こうして昼飯の後の安息の時間が何にもまして嬉しい。同行者とどうでもいいような話を交わす。もう馴染んで気を遣うことがない。(最もいつでもどこでも気を遣わないガサツ者だけど)

 

 

 雨が上がってきた。午後は隣の運動公園を通り抜けて競馬場方面に北上する。運動公園に蓮池があった。もう花はないが、大賀蓮が栽培されている。これをこのときまで、「たいが」と思っていたが「おおが」と言うべきものだと知った。

 へえ~~そうだたのか! と言ったが、皆知らん顔をしている。どうやら知らなかったのは自分だけであったらしい。これこそ、ええ~っ、ウソ! ほんとう? だった。しかしこの言い方、一時はやったが、いまもう死語だナ。


 

 競馬場に到着。駐車場の先に立川崖線の高みが見える。崖線との再会を祝す。競馬場の中に入って、一時的に自由散会、好きなところへ好きなように散っていく。まずは土手から競馬場を眺める。でかいなあ、広いなあ。芝生の緑が目に沁みる。

 

 

 屋根付きのビップルームみたいなところへも入れるそうだ。もう生涯こんな場所に立ち入ることはない、あの世の手土産に見てこようと思う。すんげえ、立派な建物で、いささかひるむ。スマートシートという席に座ってみる。馬券を当てた気分。

 

 

 表に出て、障害レースの馬場を覗いてみた。地面はぬかるみだったが、ともかく、馬が美しい。すらりとした筋肉だけの塊が、軽やかに走り、軽やかに障害を飛び越える。見ていて飽きない。動物はそれぞれみな美しいものだと思った。

 

 

 競馬場を後にして、立川崖線の上に出て、細い道を辿っていく。道の端に「筏道」という石碑があった。解説を読んでみると、江戸時代に奥多摩から材木を筏に組んで多摩川の流れで木場まで運び、材木を納めて筏師が奥多摩まで帰った通り道、だとある。

 道幅は1mもない狭さだが、立川崖線上だから、洪水の心配もないし、また飲み水も湧き水など利用すれば得やすかったのだろう。往復6日ぐらいの行程だったらしいけれど、花のお江戸、ついついふらふらと引き寄せられる場所も多かったんだろうなあ。

 

 

 その先が東郷寺である。東郷平八郎のお墓がある。かっては平八郎の別荘だった場所だと聞いた。広大な敷地の中に、みっしりとお墓があって、敷地の先っぽの方に元帥の墓があった。木々に囲まれ森閑としている。

 思ったほど豪奢な墓ではない。四角い墓石を積み重ねただけで、傍らに歌碑のような石碑がある。石碑の文字は崩し字である故、当然のこと何が書いてあるかチンプンのカンプンである。とりあえずロシアに勝ってくれてありがとうデスと元帥に挨拶。

 

 

 東郷寺の門と、その前に植えられている枝垂れ桜が見事だった。崖線の下から門を仰ぐと、威風堂々あたりを払って泰然としたものである。枝垂れ桜は大きく枝を広げ風に柔らかく揺れている。満開の景観はどんなものだろう。

 

 

 

 東郷寺を後にして最寄りの多磨霊園駅に向かった。

 まだ3時ぐらいで歩行距離は10㎞ぐらいだが、

 午前中雨にたたられたので、今日はもうおしまい。

 そろりと秋が来る、