doniti 日誌

( おもしろき こともある世を おもしろく)

短日に追われてさんぽの帰り道

 

  

 だんだん寒くなって、ますますズルを決め込んで、部屋の中ばかりに縮こまっているから我を叱咤せしめ、結果発奮、天気もいいから散歩に行く。

 

 県境をひょいと電車で越えて、小さな街の駅に降りた。都心から巨大な波紋のように押し寄せた開発は、この土地に住宅を密集させ、あろうことか山の上にまで宅地を作ったけれど、怒涛のようなその波が津波の引潮のように去って、本来の、静かな、そして古い街に戻ったのかどうか。

 というような、どうでもいいことを考えて、駅前から続く中心街の道を西に向かって歩いた。昼近い晩秋の陽ざしが白っちゃけた街並みを照らし、通り沿いの小さな商店は特段さびれた様子も見られない。都心回帰の波はあまり関係なさそうだ。

 

 

 この街は江戸末期の頃、一揆による打ち毀しやら彰義隊残党の戦争やら、そんな騒動があったと市立博物館のwebサイトに載っていた。それでひとまずこれから博物館へ行ってみようと思う。行っても特段何が分かるというものでもないと思うけれども。

 街中に店蔵を一軒見つけた。奥の方へ長々と続いている建物で、いかにも古い形式を残している。江戸時代から続いている店なのだろうか。表の店は茶館になっているようだが、覗いてみるのもなんなので、よくわからない。

 

 

 

 一時間も歩かないで街外れになってしまった。突き当りにお寺がある。盛りが過ぎた楓がそれでもまだ門の奥に鮮やかに見えている。境内に入ってみると奥に続く石畳に覆いかぶさるように楓がもえていた。

 境内のそこここに、なんだか変な形の石仏やさざれ石などが置いてある。そしてそれらの前には、必ず「御喜捨」と書いた小さな箱がある。どうも面白くない。誰が喜捨などするものかと思う。楓の下のお地蔵さんをパチリしてそそくさと退散。



 この道の先に大きな広場があって、そこに市営博物館があるらしい。途中の道端のモミジも赤々ともえ、イチョウもまだその金色の葉を日ざしにきらめかしていた。それは目に眩しいほどの、今年最後の煌めきなのだろう。

 

 

 坂を上っていくと、どっしりと広場が構えていた。市民の憩いの場、公園になっているらしい。枯れ始めた芝生の向こうの、公園を囲む樹木が見事に紅葉して、片隅に市民会館と博物館がある。博物館は至って可愛らしく、公園の端っこに慎ましく建っていた。

 

 展示物を一渡り見てみる。概ね一般的な展示物の、そのなかで、武州世直し一揆の説明板と、この地で起こった幕末戦争説明板が少し気になる。ごく簡単な説明だけれど、両方とも江戸末期から明治にかけて、この地では大事件である、らしかった。

 最後に見た不動明王(かな?)が素朴で可愛らしい。3mはあろうかと思われる一木造りで、国指定の文化財になっているという。一木造りだから幅に限度があって、無暗に細く、長身であり、なんとも窮屈そうである。まるで囚われ人のようだ。



 博物館を出て、広場公園の椅子で周りを眺めて一服する。風もない暖かい日ざしに向こうの紅葉が炎立つように鮮やかだ。ふと時の移りの早いことを想う。もう今年も残り少ない。同じように生涯もあとわずかだ。

 想えば、失敗ばかりうず高く重ねて来たものだなあ、と思うけれど、主観はそうは思いたくない。良かったか悪かったか、それは当人だけが決めることであって、この点は他人の容喙を許さずなんである。独りよがりで、それでよいではないか、と思う。

 

 

 さて、隣に能仁禅寺というお寺がある。ぐんと胸を張った山門の脇に鮮やかな朱色の楓が目を引く。思いがけなく今日は錦秋に出会うものだナと思いながら門をくぐった。参道に立派な灯篭が立ち並び、覆いかぶさるように楓が煌めいていた。



 本堂へ登ってみると、どこからか湧き出したように参拝者が三々五々歩いていた。観光地として知られたお寺なのかもしれない。本堂で頭も下げず境内の椅子に座ってぼんやり眺める。みなさんきちんと頭を垂れているのに、なんちゅう罰当たりか。



 境内を巡ってみたら、「この地の戦争」の説明板がある。彰義隊の残党など4,5百人が慶応4年、逃れて田無、入間を経てこのお寺に集まり、勤皇方追捕兵と戦争となり、村が戦場と化して200軒の民家とこのお寺も含め多くのお寺が灰燼に帰した、とある。

 この戦争はわずか半日で勤皇方の勝利に終わったということだが、これはこの地の戊辰戦争と呼ばれているとのこと。思わぬところに戊辰戦争が飛び火したナ、と思った。説明は簡にして要、教育委員会の文字がないから、このお寺で作成のものか?

 

 

 この寺の裏に、明治16年、軍の演習を明治天皇が登って統監した天覧山という小山(標高195m)がある。まだ日も高いので一丁登ってみっか、と谷間の道をだらだら登っていくと、右手の山肌に入る分岐がある、が、なんと恐ろしいことに階段道がずっと続いていた。う~むと思ったが、何しろ195mである。

 階段道を、よろよろと5段登っては休み、ぜいぜい息を切らし、また5段登っては休む。これで果たして195m行けるのだろうか! しかし摩訶不思議なことに、登ってはぜいぜいを何回か繰り返すうち、頭の上の方の紅葉が燃え盛る火のように見えてきた。

 

 

 

 あのあたりが頂上であるらしい。よろよろと登ってみると、上は展望台になっていた。市街地が明るい陽を受けて眩しいほど白い。高いビルはほとんどなく、小さな家が丘陵の谷間をびっしりと埋めている。

 この後、向こうに横たわる丘陵を越えて帰ろうかな、などと考えながら一服していると、高校生のような娘っ子が登って来て、スマホを頭上に掲げた拍子にちらりと裸の脇腹が見えた。見てはならぬものを見てしまった。

 しかしそれよりも、この季節に薄いカーデガンのような服を引っ掛けただけで、この山道を難なく上って、至って元気そうに微笑んでいるその若さ、その明るさに、杖にすがってよろめきながら、ぜいぜいと登るわが身が哀れであったなあ。

 

 

 下りは別な道(舗装してある)をよれよれと辿って、もとの能仁禅寺に戻った。そして公園広場の脇道を下って、川原に出た。屈曲した流れが広い砂利の河原を形成している。午後の陽が周りの紅葉した木々を照り返していた。

 この川原に、江戸末期(慶応2年)、川の上流の名栗村の食い詰め百姓が押しかけて徒党を成し、武州世直し一揆が始まったと、先ほど立ち寄った博物館で教えられた。この川原に200人ほど、名栗の村人が結集したという。

 

 この時期(慶応2年・明治維新の2年前)は開港による貿易で諸物価高騰、第二次長州征伐で兵糧米買い占め、かてて加えて天候不順などによる不作、などなどが重なって米価が急騰していた、という時代背景がある。

 悪いことに、名栗村は谷の奥でコメは取れない、買って食うしか手がない。米が上がれば即ち食えない、餓死するほかない、という状況だったらしい。そこで農民は止むにやまれず立ち上がった、というのがこの一揆の突端らしい。ただし一揆にも厳然たる約束があって、家は毀すが人は殺めないことを厳守していたと言われている。

 この川原に集まった一揆勢は、この街の豪農、豪商を襲って家屋を打ち毀し、金銭を要求した。一揆は瞬く間に武蔵国北西部、上州へと広がっていき、各所で打ち毀しが発生したものの、総計10万人にも及んだという一揆は、6日後、各所代官、陣屋において鎮圧され、首謀者の処刑が行われた、という。

 

 

 このような歴史を孕んだこの街はしかし、今ではその面影を探すことすら難しい。ただ語り継がれ、書き残された資料がひっそりと、人目に触れずに歴史の向こうに隠れている。それを掘り起こす試みもあるようだが、失われたものは大きい。

 てなことを想いながら、今度は川を挟んだ街の対岸を歩く。こちらは北向きだからまだ3時前というのに、早々と陽が陰ってしまった。これからあの展望台で見た丘陵まで辿り、その丘陵を越えることが出来るだろうかと、弱気が頭をもたげる。

 

 

 陽が陰った道の雑木林の紅葉は美しく映えているが、振り返ると太陽ががくんと落ち込む、またしばらくして振り返れば、またがくんと落ち込んで、まるでだるまさんが転んだを楽しんでいるようだ。それでまた、ぐずぐずと考え込む。カエロカナと。

 この葛藤は、生来の軟弱さが勝ちをおさめた。陽が陰っている淋しい道を一人ぽつねんと歩いていると、どんどん、どんどん弱気に引きずられてしまう。まあ、今日は山を登って疲れたしな、と自分に言い訳して、街に向かう橋の方へ曲がってしまった。

 

 ああ、今回は、3時半ごろ帰りの電車に乗ってしまった。

 情けなかあ~。

 仍て表題の如し。