doniti 日誌

( おもしろき こともある世を おもしろく)

秋の終わりに

 しばらくの間部屋でぐだぐだしていたので、どこかへ出かけたくなった。

 いつか行った秩父街道が通る山峡の地を又歩いてみたい。

 

 

 

 そんなわけで、3回目の東飯能駅。だけれど、ごちゃごちゃした街中を歩くのは嫌だから、ここでひょいと西武線秩父行きに乗り換え、一駅乗って高麗駅到着。遠い昔、朝鮮からの渡来人が武蔵野国高麗郡に集められたという、いわれの高麗駅

 森閑として人気のない駅前広場に9時ちょっと過ぎに降りたって、懐かしい天下大将軍、地下女将軍のポールを見上げる。ユーモラスな怒り顔はそのままだが、赤く塗られた柱が禿ちょろけて年月の経過を想う。

 

 

  さて、ここから山峡の地を西へ向かって歩こうと思う。その谷筋には清冽な高麗川が流れ、流れに沿って西武線国道299号秩父街道)が谷奥へと分け入り、ところどころ昔の細道が残されている。

 なるたけその細道を辿って二つ先の駅、東吾野までいき、そこからは、初めて歩く丘陵越えの道を通って、南側の入間川沿いの谷筋に下り、そこを東飯能駅まで戻ってこようというもくろみなのだ。が、果たしてこの距離を歩けるや否や。

 

 

 それに今回は、あろうことか大失敗をやらかした。スマートフォンを忘れたのである。これにより、時刻が分からない、歩いた距離が分からない、持ってきた地図の外側の部分が全く分からない、という状況になってしまった。やんぬるかな!

 なあ~に、昔はスマートフォンなぞなかったのだから、と自ら慰め、腹が減ったら食えばいいのだし、疲れたら休めばいいし、地面は皆つながっているのだから、このルートを歩けない道理が無かろう、と鼓舞する。

 

 

 高麗駅からひとまず国道299号に向かう。ふと脇の細道が目につき、ふらふら入っていったが、その道はすぐに行き止まってしまった。周りを見回すと畑と人家の間に、道ならぬ踏み跡が見える。どこへ出るのかわからないが、えいっ!そのままいったれ!

 恐る恐る辿っていくと、縄文時代の住居跡という史跡に突き当たった。思いがけないことであった。丸い窪地の中に河原石が丸く並んで、説明板によると時代の異なる2軒の掘っ建て住居の跡なのだそうだ。ふ~ん。

 

 

 縄文住居跡から降りて行って道路に突き当たり、車の通行が多いのでてっきりこれが299号線と思い込み、しかしどうも変だ、先の方に鉄道の線路のような橋げたが見える。ここで西武線を横切るはずがない。

 近くの人に聞いてみたら、やはり国道じゃなくて、この上の住宅団地への連絡道路だという。すでにして道間違いを犯した。地図を持っていて間違えた。この調子じゃあこの先どうなる? 大いなる方向音痴、我が脳みそはぶっくれている。

 

 

 気を取り直して国道299を歩く。さっきの道とまるで違って、立派な歩道があるし、道幅が違うし、トラックが轟音を発して行きかっている。国道は大きく左へカーブして今度は右へ曲がろうとする場所に、細道が分岐していた。

 こんどはたぶん大丈夫だろうと、いそいそと細道を辿っていく。畑の中に住宅がぽつりぽつり、木々は紅葉し咲き残りのコスモスが風に揺れている。初めて歩く道はいつでもわくわくする。この先に何があるかの期待が膨らむ。


   

 前方に高麗川を渡る橋が見えた。橋げたに「祥雲橋」と書いてあって、花を植えた鉢が並べてある。渡っていくと前方は山裾の黒い杉林で、その中を西武線が貫いているらしい。近寄ると線路際に「旧祥雲橋 道路橋脚新設記年碑」というものがあった。

 あったけれど、橋名を彫り込んだ石が、ただ草むらに置いてあるだけなのだ。どうしてこんなものが置いてあるのだろう、何かいわれがあるのだろうか。さっぱりわからないのでぼんやり佇んでいると、西武秩父線の特急が走り過ぎていった。

              

 

 

 線路際をぐるっと回りこんでから今度は線路を渡る。渡った先の高みに観音堂のようなお堂が見えて、その脇の楓が陽の光を受け輝いて見えた。登ってみると逆光を受けた紅葉がなんとも言えず美しく煌めいている。モミジは逆光で見るべし。



 そしてまた線路を渡り返して里道に戻ってきた。向こうの山の落葉樹が色づいて、もうすぐ秋も終わるなあと思う。過ぎてみれば1年も早い、そして一生も早い。様々なことがあったけれど、み~んな脳みその中の、おぼろげな記憶にしか過ぎない。

 その時間というのを、過去、現在、未来を結ぶ一本道ようにイメージするのは間違いではないのか。過去は脳みその朧な記憶だけだし、未来に時間は存在しない。だから時間というのも、そしてその結果の「生」も、今この瞬間だけが存在するのではあるまいか。

 

 



 高麗川の橋を渡りなおすと、そこが横手渓谷、川辺に遊歩道が続いている。前回の時、こんな山の奥にどうしてこんな游歩道など作ったのか、と不思議に思ったが、ここに住む人たちだって、ぶんぶん疾走する車がいない散歩道は必要なのだろう。

 川べりをかすかな沢音を聞きながら歩くのは、1㎞あるかないかの短い距離だけれど、とても長閑な気分だ。前方を、腰を曲げてねこぜになったお婆さんが、杖を突きながらのんびりと歩いて行く。丈の高い大王ダリアが青空に鮮やかに映える。

 

 高麗川の澄み切った水面にモミジが写って美しく映える。しかし東北の山などに比べると、関東では赤く色づくモミジや楓がうんと少ないように思う。どうしてなんだろうか、もともとこの種の木が少ないのか、それとも根こそぎ取り過ぎてしまったのか。


 

 それから国道299の旧道かと思われる道路に出た。おばあちゃんが二人、病院の帰りだろうか、並んでゆるゆると歩いて行く。「それじゃまたね」といって一人がどこかの家に消えた。もう一人はちょっと先の家に消えた。

 家のフェンスにきらきらと陽に輝くなにやらの種、空き地にほんわかと咲く桜の花、時間がゆっくりと過ぎていく。だから多分、ここに居ると寿命が少し伸びるかもしれないゾ。あくせくすると、それだけ時間の経過が速いのかもしれない。

                  



 

 そうして武蔵横手駅に着いた。駅の時計は10:30を指す。プレハブのような小さい駅舎のベンチに腰を下ろし、明るい陽を浴びながら休む。電車がきたらしい。無人駅だとばかり思っていたが、いつの間にか若い、かっこいい駅員がホームの横に立っていた。

 高校生の様な若者が一人乗っていき、おっさんが一人降りてきた。駅員もいつの間にかどこかに消え、あとは深々閑々と静まり返った。これでひとまず時刻は確認できたが、この後丘陵越えが待っているからそうそうのんびりもできない。

 

 

 この後、国道299を歩き、2カ所の脇道に入り、それで東吾野駅に到着した。また時刻を確認したはずだが、あるまいことか、メモしていない。たしか11時半ごろだったと思う。駅の自販機でチョコレートを買い、ベンチでエネルギー補充。

 さあて、いよいよ初めての丘陵越えの道に入る。といっても昨日調べたら、東吾野駅標高132m、てっぺんの東峠が290m、たった160m程登るだけ、山に登る人にとっては屁でもない標高だ。ただ熊公が昼寝なんぞしていたら嫌だな。

 

 

 暗い杉木立の山道に入る。が、舗装してあり幅も4mぐらいある。これは山道ではなく立派な道路だ。車もときおり通るから、熊公の昼寝もないだろう。ただ杉や檜の植林帯らしく、暗くていささか寒い。


 道路ではあるけれど、やっぱり上り道であることに変わりはない。颯爽と歩きたいが、少し歩いては立ち止まって息を整え、また少し歩く、そしてまた立ち止まる。ヘアピンカーブで行く先が頭の上に見えているときなど、ぞっとして見上げた。

 ちょっと歩いては立ち止まるを何回も何回も繰り返し、なんたる情けなかあ~と我ながらあきれ返った。どうしてこんなことになってしまったろう。昔はこんなことは断じてなかった。こんな程度の坂は休みもしないでさっさと登ったはずだったのになあ。

 

 

 同じような年齢でも平気の平左で登っていく人もあるのになあ、とわが身を恨む。ほんとに、ヒトは決して同じようには造られていないらしい。小さいのもあり、大きいのもあり、強いのもあり、弱いのもある。上り坂平気もありダメもある。

 脳みそだって、極めて優秀で効率よいのもあり、また全く使い物にならない、おがくずのような脳の我もいる。こう見てくると、体もダメ、脳もダメで救いようがないように思われてくる。とかくこの世は不公平だ(と、努力という要素を無視して言う)。

 

 

 情けない格好で、情けない考えを持って、それでもいつかは、てっぺんに着く。「東峠」標高290mと書いてある。ほうう~~っと長嘆息して立ったまま休んだ(座るところがない)。やれやれこれで下りだ、距離も時間も、スマホがないので分からない。 

 

 

 下りは威風堂々、決して嘆かない。登りをすっかり忘れたように大威張りで下っていく。山の陰、林の中を抜けると、南向き斜面だから陽が燦々と照っている。やっぱり陽ざしはいいものだ。気分がすう~っと明るくなった。

 

 

 やがて麓の道路に突き当たり、家が数軒見えてきた。そういえば、まだ昼飯を食うておらん、安心したら腹が減ってきた。両側に家々がぽつりぽつりと並ぶ、その脇の草の斜面に入り込み、どっかと座って昼飯にする。

 座った周りの小さな花を眺めたり、すぐそこの下を走る車を眺めたりしてゆっくり休んだ。ただ、運転者がこちらを魂消たような顔をしてみているらしいのが気になった。変なおやじが変な場所で、まったりしているゾ、と不審に思われたらしい。

 

 

 そして入間川に突き当たった。こっち側の街道は車ぶんぶん、歩道無しだから、対岸に渡って、車のごく少ない道を歩いた。ただ、対岸は既に陽が陰っている、が止むを得なければ仕方がない。何回か歩いた道だから、無念無想で足を運ぶ。

 

 

 入間川の中に設けられた飯能市の水道施設を通り過ぎたあたりで、ふいっと右手の山影から高校生のような娘っ子が出てきた。はて、山の中には爺さん婆さんしかいないはずだが、と思っていると、同じような若えもん4人、その山道を登っていった。

 そしてその先に「自由の森学園・中学校/高等学校」と書いた看板が出ていた。しかし何でこんなところに中学や高校があるのか、とんとわからないまま通り過ぎた。帰宅後検索したら、ツーシンボもシュクダイもない学校、とのことで半分納得した。

 

 

 そこから先は、見るものもないし聞くものもないし、とうとう持っていた地図の外側になって、今どの辺を歩いているのか、いまなん時なのか、目も耳もないような状態になってしまった。やはりなんといっても、スマートフォンは必要である。

 疲れてきたし、目も耳もなくなったし、モノを考えずにただただ歩け、とわが身に命じ、とぼとぼよたよた、ただ足を前後に動かすことに専念する。ああ、午前中に、スマホなんて無くても、と思ったのは大いなる傲慢であった。

 そのような状態だったが、やはり紅葉した山を見ると心が和む。そして山肌を照らす陽ざしに、まだ3時ころかなあ、と見当をつけ、陽がとっぷり暮れるその前に、なんとか東飯能駅までたどり着きたいものだ、と真剣に思った。

 

 

 よろよろとぼとぼの歩みは相変わらずだったが、遂に飯能市街地へ通じる飯能茜台大橋というところまでたどり着き、飯能市街地に出るべく左岸に渡ってそこの道路を歩き始めたのだが、これが又車ごうごう歩道無し、で殺されるほどアブナイ。

 たまらず北の方へ逃げたが、結局どこがどこやらわからない。公園になごんでいた爺様に聞いたら、ここを下って左にいって、と教えてくれ、辿っていくと、なんだなんだ、先の殺人道路ではないか。結局これしか道はないのだと諦めた。

 

 

 しかし、その道をこわごわ歩いていて、素晴らしい光景に出くわした。たぶん飯能川原の近くだったと思うが、西日を受けてモミジが萌えあがるように照り輝き、それはそれは夢のトンネルを歩いているように思った。


 

 このようにして東飯能駅にたどり着いたのが4:20ころ。

 歩行距離は結局わからないが、疲れ具合からするとだいぶの距離かも知れない。

 丘陵越えで泣いたり、最後の行程でうなだれたり、いやはや忙しかった。