doniti 日誌

( おもしろき こともある世を おもしろく)

若葉の影はまた若葉

 梅雨の走りのどんより空のそのすきま

 目に青葉、山鶯の声聞きたし、とぶらぶら。

 

 

 

 駅を降りたら近くに大塚山という丘がある。・・・はずだが、毎回毎度必ずここで道に迷う。はて、あっちかこっちか、恐ろしいほどの方向音痴、即ちグーグルさんのお世話になって、ようやく行き着いた。早くも、やれやれである。

 丘の上は整えられた公園になっている。塚の説明がないから、丘陵の削り残されたものだろうと思う。躑躅が咲いて木々は若葉を噴き出している。陽ざしがすでに暑い。今日は27度になるそうだ。春を早々省略して夏になるらしい。

 

 

 毎回、恐ろしく大きな天寧寺というお寺に立ち寄ることにしている。立ち寄っても仏に安全を祈願するというような、そういう殊勝な気持ちはない。ただ無暗に大きいなあ、と感心し、墓地の一画でふかりふかりと一服するだけ。

 

 

 天寧寺を後に車の行きかう道を進む。両側の丘陵の、若葉がえらく美しく目に入るが、写真にすると別にどってことはない。してみると人間の目というものは、自己に都合よく極めてうまくできているものらしい。カメラは当然それに及ばない。

 感心して四囲の山肌をぼお~と眺める。柔らかな浅緑の葉っぱがむくむくと湧き出るように山肌を覆う、それが陽光に煌めくように明るい。こういうのはコナラやクヌギの葉っぱだそうで、杉や檜はいけない。そのいけないのを山ほど植えて困っている。


 

 森へ続く道に入るが、すぐに右手が開けて浅い谷筋になる。この道は近年、あろうことか廃棄物処理場がいくつもできた。おかげで我が悠々揚々たる散歩道は台無しである。目障りなものをことごとく山道に押し付けてはいかんのじゃないだろうか。

 それでも、細い側溝と山肌の間に小さな花が懸命に咲いている。キツネノボタンの輝くような黄色が目に飛び込んでくる。可憐なセリバヒエンソウが風に揺れる。タンポポの綿毛が、薄ら禿の坊主頭をいかんなく晒している。

 

 

 昨日雨が降ったせいか無暗に水が溢れていて、道脇の側溝をさらさら流れ、勢い余って道にあふれ舗装を濡らしている。右側の浅い谷筋は、もとは田んぼだったから小さな流れがあるはずだが、灌木が茂って隠している。田んぼ変じて雑草となるはたちまち。

 その流れが小川の態をなしてきて、覗き込むと小魚が我が世の春を謳歌している。このあたりから家が現れ、のどかな光景に森閑として鎮まっている。畑の畔に春の草花が弱弱しく伸びはじめ、しかし傲然として繁茂する勢いである。

 

 

 だんだんと家が増えてきて道路も広くなった。そうして向こうの山が見通せるようになって、しばし呆然とする。若葉と杉の織りなす具合は、なにに例えよう。しかしそう焦るナ、ここで少し休憩。草の広場にどっかり腰を下ろし、おやつを食う。

 何処かで鶯がさかんに鳴いている。ガビチョウも鳴くようである。傍の畑に人がいる。青い車がぽつんと停まっている。こうして無益なことをしていて申し訳ないような気が、ちょっとだけする。目を上げて若葉の森を眺め、目を下げて草の花を見つめる。


 

 先へ進むと向こうの山が一層美しい。山を覆い尽くし、畑に広がる若葉。どこを見ても生まれいずる緑の若葉が、さあ、これから我が季節、みっしりと育って人生を謳歌せむ、と言っているような気がする。

 どうも毎回同じような景色を見て、同じように感にたえざる気持ちを抱き、少なからずバカではないかと思うけれど、バカでも何でも構わないから、何度でもこういう光景を見たいと思う。よく考えてみると、どうも子供の頃からこういう傾向があるナ。



 畑の畔には躑躅の蕾がびっしりと見える。ハルジオンが花をうっすら赤く染めて、恥じらうように咲いている。タンポポの綿毛は坊主頭を並べる。よく目につくカラスノエンドウの赤い小さな花が風に揺れる。そんな道をぽくりぽくりと歩いてゆく。

 



 集落を抜けて歩いて行って岩倉温泉に突き当たった。いまはもう顧みる人もなく、旅館や遊技場が放置され朽ち果てていく。そこを過ぎて車の通る街道になった。初めてのこの味気ない街道を延々、八高線に突き当たるまで歩く積りだ。

 車がぶんぶんする。途端に面白くない。陽ざしがこれでもか! と頭をどやしつけるからうんざりする。それでも数少ないわき道を見つけ、辿って行って思いがけもなく花咲くお寺などを見つけ、つかの間ほっとする。



 トラックが唸りを上げる街道を、仏頂面で歩いていてはっとした。川の断崖のところに、岩井観音と幟がある。これは見覚えがある。とするとこの道は歩いたことがあるはず、だがいつ頃どうして、ということは全く思い浮かばない。

 自分でこの道を選んで、そして歩いておいて、初めて歩く、なんざあ見上げたものだ。かくのごとく、往時はまるで茫々、まるで他人が体験し、他人が生きているようなものだ。だからなにごともいい加減でいいんじゃないだろか。

 

 

 車に虐げられながら、やっとこさ足を前後に動かし続ける。そしてまた脇道を見つけて入っていった。たちまち車から解放され、山の緑に感動する。花水木らしい花と、畑と、民家が織りなす光景に足を止める。



 しかし大部分の行程は車ぶんぶん、日差しがんがん、堪りかねてアイスを買って齧りながらゆく。と、安いアイスがとんでもなく旨く感じる。夢中でぼりぼり齧って、なんだか少し元気が出た。そうか、食い物にも弱かったのか!?

 

 

 そうして八高線の線路が入間川を渡る鉄橋までやってきた。ここに小さな沢が七国山丘陵から流れ出している。この沢を辿って、丘陵を越え(と言ってもたった標高250m!!)向こう側の八高線金子駅へ出るのが今日の目論見。

 時刻は午後2時、丘陵越えの大事の(大げさだって! )前に腹ごしらえ。以前立ち寄った神社で昼飯。ここからは正真正銘、全くの初めての道筋、地図はあれども国土地理院のwebサイトからのものだから、役に立つかどうか。

 

 

 沢に沿って歩き始める。いい塩梅に木陰の道でほっとする。道幅は広いが昨日の雨で湿っている。沢音がここちいい、鶯がここでも鳴く。たった一人で誰もいない。車ぶんぶんの街道とは正反対で嬉しいはずだが、なんだか寂しい。

 

 

 沢道をだいぶ歩いて登りつめると池があり、ここから本式の山道になった。昨日の雨で無暗に水が湧き出し、暗い森の中に、あっちもこっちも流れだし、凡そ道案内の標識がないから、沢の向こうにも道があり、どっちだかわからない。そのまま進んだ。

 進んでいくと、ようやく紙っぺらに「七国峠、急坂登る」と書いてあった。登りかけて、これはもしかして、えらく離れた場所に通じる道では、と思い直し、急坂ではない沢沿いの楽な道をたどった。今思い返せば、逃げたな、と思う。


 

 道は縦横に別れ、案内標識がないから適当に道をたどるしかない。どこへ行く道なのか、いまどこにいるのか全く分からない。分からないけれど、いったん山道に入った以上、遮二無二進むしかない。山の中で一人ぽつねん道が分からず、というのはあまり気持ちのいいものではないような気がする。

 しかしまあ、自転車のわだちの跡があるから、どこか知らない異世界に迷うこともあるまい、と沢沿いをずんずん進んでいったら、ロープが張ってあって、ここは私有地、車両乗り入れ禁止、の紙っぺらがあった。

 周りをよく見ると脇の山肌に踏み跡がついていて、向こうの尾根道に出るらしい。どこにも行けなければ、仕方がない、稜線に登る。登ったら幅2mぐらいのハイキングコースだった。この丘陵の中は道が縦横に分かれているが標識皆無状態、迷うわナ。

 

 

 結果として、青梅市郊外の薬王寺の墓地の上に出た。こうなれば勝手知ったる道である。ほっと安堵し、薬王寺で随分ゆったりと休憩。裏山の躑躅が見ごろで参拝客もちらほら。西に傾いた陽が躑躅山の向こうに沈み、いま時刻は4時ちょっと前。

 水道があったので、山道でついたズボンの泥を洗った。それからふと、ズボンだけ洗うというテはないだろうと思いついて、顔もごしごし洗った。そうしたら大分さっぱりしたようだった。この時点で歩行距離は18㎞ほど、疲れる筈だ。

 

 

 さあ、そこからはひたすら金子駅を目指す。足が疲れていて、膝がかっくらきんと不自然に曲がる。けれど歩かなければ到底駅にはつかない、駅につかなければ即ち帰れない、帰れなければ飯にありつけない。ガンバル。

 

 



 この春は異常に暑い日があるように感じる。

 この日もそうだったようだが、総歩行距離は22㎞。

 年寄りに冷や水も、適切に飲めば旨い。