今回の「歩く会」は野川。
野川は国分寺崖線に沿って、(主に)湧水を集めて多摩川に合流する小さな流れ。
野川の流れ出しは、国分寺駅近くの日立研究所内「大池」と、古代国分寺跡近傍の「真姿の池」と言われているが、途中から国分寺崖線の他の湧水を集めて、世田谷の二子多摩川で多摩川に合流している。その流れを2回に分けて歩くのだそうだ。
何度も歩いたコースだけれど、その川沿いは東京にあるまじき、と思われる草木が生い茂り、初夏はやっぱり野川だよなあ、と思って参加した。半晴の空は歩くにちょうど良く、エラクのんびりし過ぎて終わりの方、尻尾がちぎれてしまったが、面白かった。
川沿を歩くなら源流を極めろ、と言うから「大池」の流れ出しへまず行く。中央線の線路の下にぽっかり口を開けるトンネルから、ちろちろと水が流れていた。ほんの小さな流れだけれど、湧き水がどんどん枯れている多摩地方では貴重な流れだ。
そして次に「真姿の池」の流れ出しへ。こちらはハケ(崖線)の石積みの下から湧き出している。澄み切った清らかな流れだから、ちっちゃな子にも安心、無心に遊ぶ子と見守る若い母親の姿が心に残った。
「真姿の池」の流れに沿って「お鷹の道遊歩道」を下る。川端に様々な春の花がここを先途と咲き誇り、流れの中に、オイカワだろうか小魚が群れ、童謡の春の小川の風情。微風新緑を騒がせ、実にのんびりゆったり。
国分寺駅下あたりで、この二つの流れが合流、更に経済大学の湧水新次郎池と貫井神社湧水が合流した。新次郎池は枯れて湧き出しの石組が白い。貫井神社は健気に湧き出して拝殿前に池を作る。これはもしか神様の神通力か?
ここまですでに4つの湧水を集めて、さあ、いよいよ野川の岸辺だ。両岸に立派な遊歩道が作られているが、川っぷちの堆積した泥の草原も歩ける。あの草原を歩きたぁ~い、という声があちこちから聞こえ、しばらく草を踏んで歩く。
草々は湧き立つように伸び、新緑の桜が頭上にかぶさる。うかうかしている隙間を縫って、まさに季節は初夏になってしまったらしい。油断できない。どうかすると、5月には梅雨、なんてことにもなりそうだなあ。
あちらこちらに野草を見つける。”野草という草はない! ”と怒られそうだが、悲しいかな名を知らぬ。名を知らぬは何も知らないと同然、ただ眺めるだけ。それだけでも、しかしココロは押し広がって楽しいような気分になる。
川べりの階段の、銘々好きな場所に陣取って昼飯。「歩き」の昼飯は弁当に限る。初々しい新緑に囲まれ、空気も旨いし、握り飯も旨い。どこぞのこじゃれたランチなどもってのほか、と大偏見が頭をよぎる。
昼飯を食って元気を取り戻し、かつ日程が遅れているらしいので、川に沿った遊歩道をわっせわっせと歩く。遊歩道の脇の躑躅が咲き始めている。隣接する民家の庭からモッコウバラの黄が大滝のように流れ落ちている。
それを眺めながら、麗らかな春の野を歩いた。何か体の中まで沁み込んでくるような時間である。何日か後になると、たぶんこの時間が頭の隅っこに霞のように浮き上がってくるだろうナ、記憶に残るのはそんななにげないトキであるように思う。
そして武蔵野公園に入った。何もない広っぱで、たぶん野川の氾濫があった場合の遊水地となっているのだろう。空の広さが心地よく、ここでしばらく休憩。周りを取り囲む林の、濃い薄いとりどりの新緑がとても美しい。
西武多摩川線をくぐると地続きで野川公園となる。野川の流れに沿って花咲く小道を歩く。道脇にフェンスで囲まれた一角が伸び、自然観察園となっていて、主に野草、昆虫の天国らしいのだが、今日は時間がない、ということで無残にも通過。
橋の上からの野川を振り返ってみると、草木の命があふれ出るが如くに見える。毎年これを繰り返して、いつから、そして、いつまでとも知れない悠久のトキを通過しているのだろう、と思うとなんだかやるせない。
短い人の生の、もっと短い、残された時間を、どう過ごせばいいのか皆目見当もつかないけれど、少なくても楽しいと思えるような時間を過ごせれば、それでいいんじゃないかと考える。楽しいこと!? やっぱり野っ原を歩くことかなあ。
そして最後に水車小屋に立ち寄り、相変わらず健気に回っている水車の解説を聞き、同行した元数学教授が、うむ、勉強になった、とのつぶやきを耳にしつつ、解散となった。とてもいい、一日を過ごしたように思う。
バスで三鷹駅へ出た連中が例の如く一杯。
わあわあ騒いで日が暮れて、
重い足を引きずりながら、帰宅した。12㎞ほど。