doniti 日誌

( おもしろき こともある世を おもしろく)

朝さんぽ再開

 台風に伴う嫌な雨が収まったので朝さんぽを再開した。

 

 

 

 晴れている、と思うと急にざあーとくる。大慌てに狼狽して家中の窓を閉めにかかる、しかし時を置かず青空がが覗いて晴れる、暑いから窓を開けるとまたざあーとくる。恐慌をきたして閉めたり開けたり。これの繰り返しが延々と続いた。

 そのいやらしい雨が収まって爽やかに晴れそうな東の空なので、さんぽに出てみた。土手道に上ると川はほんの少し普段より増水したようだが、まあ、穏やかな方だろう。ただ笹濁りになっているのは、奥多摩あたりではそれなりの雨量だったのか。

 既に陽が登っているけれど、風が、台風の余りの風なのか知らないが、それでもだいぶ涼しい。お盆を過ぎると急に涼しくなるのだ、という古い記憶があって、それで涼しいと思い込んでいいるのかも知れないが、とりあえず今日は気持ちがいい。

 

 土手に密生している赤爪草が枯れて花ぼっちがみな茶色に変色している。ヘクソカズラが可憐な花をつけて地を這っている。わがもの顔に茂った葛の花弁が散りしいて紫の鮮やかな点々に見えている。

 高齢者が散歩したり走ったりしているのは相変わらずだが、走る人を見ると無条件にエライと思う。自分にはできないから、それを実行している人はなに構わず尊敬に値する。みな痩せているのは、肥満解消じゃなくて、走るのがもう癖になっているのだろう。

 いつも休憩している広場で、今日はラジオ体操をしているグループがいた。自分もラジオ体操をしたいなと思うけれど、集団になるのがどうも、なので独りで家の中でやる。が、これが長続きしない。

 

今日はその広場を通過して自宅に帰る。途中両側を林に囲まれた薄暗く湿った道を通る。ここにはいつもオハグロトンボがひらひらしている。歩いていると2,3mぐらい先にふわっと止まる。カメラを構えて近づくとひらひらと逃げてしまう。

 また近づくとひらひ逃げて2,3m先にとまる。完全にバカにされている。ここまでおいで、こっちの水は甘いぞ。人を虚仮にする知恵があるのかもしれないが、しかし彼らは何を考えて生きているのだろう。生きるということはいったい何に因っているのだろう。

 

 

 オハグロトンボが何を考えて生きているのか知らないが、乏しい頭で考えてみた。たぶん生物が最初に現れた時に、生きる、という機能を至上命題として付与されたのじゃないかと思う。地上のあらゆる生物が、ただ生き続ける、とプログラムされているのじゃないだろうか。

 こういうのを本能と言っていいのかもしれない。あらゆる生物がそのようにプログラムされた本能を持ち、それは生物の機能の内で最も基本的で最重要なものであるように思われる。これを持たない生物はたぶん存在しないのだろう。

 

 しかし、ただ生続ける、という創古からの生物の本能を、戦争は何の理由もなく奪ってしまう。ただ生きたい、という当人の基本的希望も、生きさせたかった、という関係者の望みも、何ら考慮せずに奪ってしまう。

 だから、誰もが戦争を忌避する。誰でもが戦争を嫌うけれど、いまだかって戦争がなくなったためしがない。これからも無くならないのじゃないかと思う。ではどうすればいいのだろう。誰もが死ぬのだから戦争で死ぬのも同じ、では決してない。

 

 

 てなことを8月のさんぽで思いながら歩く。

 脳足んの頭だからよく分からないが考え続けたいなと思う。

 朝さんぽの季節が刻々と移っていくがまだしばらくは・・・